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愛情に恵まれずに育った人は、行いが芝居染みていて、言葉は言い訳に溢れている。
愛情を知らない人間は、意図や原則をもって愛し、愛されようとする。
誤りが根絶できないからといって、そのための努力が否定される訳ではない。
謝るということの中には、少なくとも三つの、卑しさへの契機が含まれている。
謝ることによって、自らの心の負担を減らそうとする身勝手さ。
とにかく謝りさえすれば、相手の気も済むかもしれないという侮り。
そして、ただ謝っただけで、もう許されることを期待しているような厚かましさ。
真摯に謝ることは酷く困難で、本当のところを知ることは誰にもできない。
ある宗教がもっとも不安定になるのは、すべての人間がそれを信じたときである。
怒りはつねに、自分自身の無力さに対するものだ。
それは、意識化されて芝居染みたものよりも直接的な、自己嫌悪である。
いくらかのそれに値する人々の考えを受け入れ、模倣することによって、独自性は得られる。
なぜなら完全な模倣などはありえず、必ず独自の取捨選択がなされるからだ。
意図をもって、切実さを求めることはできない。
切実さを求めることは、すでに一つの切実であるからだ。
切実な人間は、気付いたときにはすでに、切実に切実なのである。
違和を感じながらも眠り続けることが、つまり、眠りこけるということだ。
大げさに言って揶揄してみせるよりも、そのままの姿を言い当てることの方が、よほど滑稽だ。
幼さとは、自分がどんなことをしたとしても、ただ黙って頷いてくれる相手を求めることの、その度合いである。
愚かしさから逃れようとすることは、それ自体、愚かしさの一部である。
賢さは備えることではなく、不安から目を逸らさないことの中にある。
ただ備えてばかりの人間は、やはり愚かしいものであるのだから。
関係を壊してしまいたいと感じて人は、これだけは許せないと思えるものを探し始める。
悪魔は何も強要などしない。
取引をしようとただ、そそのかすだけだ。
悪をまだ知らない善は、本当の善ではない。
それはむしろ、無邪気と呼ばれるべきものだ。
価値あるものはすべて、意識的な選択の洗礼を受けなければならない。
ある特定の感情や考え方を、それ自体あってはならないものと考える人間は、極めて愚かしいか、あるいは病的だ。
ある人が持つ、世界を解釈する仕方というのは、その人が自分の心を支える杖である。
まったく同じものを別の人間が使ってたとしても、その心もまた同じように支えられるとは限らない。
生き方というものに正解はない。
だから多くの人間が、自分の生がいかに充実しているかを人に示そうとする。
しかし彼らが本当に納得させたいと思っていながら、そうできないでいるのは、自分自身なのである。
生きている人間は、自分が生きていけるように世界を捉え、また捉えようとしている。
その姿は厚かましく、健気だ。
異常者と和解するには、ごまかしが必要だ。
だから結局、異常者と和解できるのは異常者だけだ。
上手く表現できないとき、それは言葉に力がないのではなく、自分に力がないだけのことだ。
選ぶ側の人間は、自らの利益のために選びながら、選ばれた人間が自らの利益のために行うと、それを非難する。
厭世家とは、厭世観という世を享楽する者の謂である。
多くの人間がそれに従うことの不毛さをまだ知らないから、あらゆる社会的な価値は、価値として存立できているのだ。
恐れは小さすぎると相手にやられ、大きすぎれば自分にやられる。
怯えた人間の姿は、それを見た者の心を苛立たせる。
なぜなら、誰もがつねに幾らかは怯えを抱えているからだ。
表向きだけの敬意は、確かに一つの侮蔑である。
それでもやはり気遣いの欠片が含まれているのだから、敬意であるには違いない。
解釈には、つねに幾らかの偏りが含まれている。
だから偏りをすべて排除しようとするなら、どんな解釈も成り立たなくなってしまう。
そもそも偏りをすべて排除できると考え、またそうすべきものと捉えることは、それ自体非常に偏った解釈だ。
家族は、人間を支える物語を生み出す、依然として強力な装置である。
語られた自己肯定は、自己合理化に堕する。
価値があるということは、何かの役に立つということだ。
しかし、人間は何かの役に立つために生きているのではない。
それゆえ、人間に価値の問題はない。
必ずしも自分にとって都合の良いことばかりではないというところに、平等というものが一つの目覚めであることの証がある。
金が欲しいのならば、寝ずに働けば良い。
そこまでして欲しくないのならば、さほど欲してはいないということだ。
金の使い方に正解はない。
だから、どんな風にどれだけ使ったとしても不満は残る。
よい買い物をしたと自分に言い聞かせるのは、納得していないがゆえである。
神は人を赦すから、そこに救いがあるというのではない。
人には救いが必要だから、赦しは神の属性とされたということだ。
考える葦でないならば、人間ではない。
考えるということは、極端を、極端に、考えるということだ。
考えるより行うことだとする人は、それを行いと言い得るほどまでには考えたことのない人だ。
競い合うことの虚しさと空々しさから逃れるために、人は懸命に競い合う。
気付くというのは気付けることであるが、同時に気付かずにはいられないことでもある。
気付かないというのは気付けないことであるが、同時に気付かずにいられることもである。
つまりは、どちらも能力であり無能力である訳だ。
希望がどこにも見つからないことが、絶望的なのではない。
希望をどこかに見つけ出そうとすること自体が、すでに絶望的なのだ。
希望とは、現実の世界を決して最高最後のものではないと捉えようとする、その意志のことだ。
希望はしばしば、現在を蔑ろにするための手段とされる。
狂信者はなぜいとも簡単に、ありもしないことを信じ込んでしまうのか。
それは、自らを無価値だと感じさせる現実のすべてを否定してしまいたいと、無意識的にではあるが、しかしその全存在をかけて望んでいるからである。
苦労することが目的ではない。
けれども、容易に得られることなど何ものでもない。
軽蔑は自分以外の人間に向けられていたとしても、つねに同時に、その状況へ身を置かざるを得ない自らへの軽蔑である。
気高い心は、自らの悲しみを語らないことによって、それがありふれたものに堕するのを拒むのである。
嫌悪するということは、少なくとも理解できるということだ。
つまり、それは自分の一部だ。
こうするよりほか、仕方がない。
これが、いつも変わらぬ悲劇の言葉である。
そしてまた、悲劇の嘲笑されるべきところだ。
幸福とは、自分自身への好感のことだ。
だから幸福はいつでも、愚かしく恥ずかしい。
幸福の糧は、自己自身への誠実である。
心が荒んでしまうのは、素晴らしいものを選び取ろうとするその意志が足りないからである。
では、もっとも素晴らしいものとは何か。
それは素晴らしいものの存在を信じることである。
心を高く保てば、どんな侮辱もあり得ないものとなっていく。
そのことを信じる。
個人の高い倫理観に頼らなければ不正が避けられないということは、システムに不備があるということだ。
答えは問題の中にある。
答えが出ない問題は、問題の立て方に問題がある。
だから、問題の立て方のどこに問題があるのかという問題を立てることの中に、二重の答えがある。
こだわれば、不自由になる。
こだわらなければ、不安定になる。
孤独という問題は、糊塗することはできても、決して解決できない。
孤独は、関係よりも上等な物語の餌である。
孤独も偉大であれば、愛されることもあるだろう。
だからもっとも深いのは、ありきたりな孤独である。
孤独を恐れるのは、愛を知らないからである。
言葉に自分勝手な意味を付けること。
多くの議論が、そこから始まる。
言葉は弱者の、しかし勝ち目のない、武器である。
子供を生きる目的とすることは、自分という問題を先送りすることでしかない。
困難な情況においてこそ人間の本当の姿が明らかになるという見方は、考えられている以上に病的なものだ。
そこには、人を試そうとするあの罪深い眼差しがある。
最上の贅沢とは、自ら求めた困難との格闘である。
才能とは、自らの自らに対する深い疑いを突破する力のことだ。
ささやかなものにも満足せよという考えには、隠すことのできない欺瞞がある。
なぜなら、その考えは生きとし生けるものすべてを突き動かしている力と、矛盾するものであるからだ。
自我は脅かされる。
人間の生には目的がないが、しかし、それを問わずにはいない自意識を持ってしまっているからだ。
自己言及が愚かしいのは、自分には言及すべき価値があるのだと、自分で言ってしまっているからである。
自己疎外とは、社会によるよりも、より深く自己によるものである。
生きるということは、自己疎外を自己から疎外することなのだ。
自己についての意識がなくても、論理はある。
しかし自己についての意識なしには、倫理はない。
自己を省みることによって人は、真実に近づくよりも多く、中毒に近づく。
自己を呪う言葉も、その認識と表現とによって、自己を愛そうとしている。
自然の摂理についての意識はすでに、自然の摂理から逸脱している。
死ねるから、死ぬのではない。
生きられないから、死ぬのだ。
死ねないから、生きるのではない。
生きられるから、生きるのだ。
自分が正しいと思うことに、人を従わせる必要などない。
誰一人従う者がいなくても、ただ自分だけは行うというのでないなら、正しさなど一体何だろうか。
自分が人を見た目で判断していることを十分に意識できている人間は、誰かに自分が見た目で判断されたとしても、それを許すことができる。
自分が見たくないものから目を逸らすために嘘を吐く者ならば、いくらでもいる。
しかし真実の一端を言い当てるために嘘を吐く者は、ほとんどいない。
自分のことを好きになろうとしている人は、自分のことが好きな人だ。
そこでは単に、手段が見出されていないだけなのだ。
自分は辛いのだから、そして不当に扱われてきたのだから、少しくらい理不尽なことをしたとしても、それは仕方のないことなのだ。
つまりはこれが、気違いの論理である。
自分を戒めるのは、甘やかすよりも強かなエゴである。
社会は手段にしかならない。
社会は目的にはならない。
社会は現実のものであるから、つねに次善の策を待ち設けている。
しかし魂は、その低さを指摘せずにはいない。
宗教は人間の弱さと同じ分だけ、正しいものとされる。
集団を構成する各人の差異が小さければ小さいほど、どの人間をそうすべきかが曖昧であるために、集団から一部の人間を排斥しようとすることは偏執狂的になされる。
自由は、他人を害しないすべてをなしうる権利を主張する。
あたかも自分が、他人を害するものすべてを知っているとでも言うかのように。
宿命論は人々の気に入る。
なぜなら、それは自分が何者かに相手にされているという思いと共にあるからだ。
宿命を求める心は、一顧だにされない自らに対する不安の裏側である。
つまり宿命というのは、人間の生に欠けている必然を補う物語なのだ。
純粋さに価値があるのは、賢明さがともにあるときだけだ。
純粋へと至る道は狭い。
しかし狭いがゆえに行くとするのは、少しも純粋ではない。
それは単に、ありふれた自己愛にすぎない。
賞賛されたとしても、素晴らしさが保証された訳ではない。
信仰は、何が自分を救うものであるかを問題にせずにはいない。
だからそれは、すべて卑しい。
信仰を持つということは、その対象を信じることであると同時に、そうした信仰をもった自らを信じることでもある。
だから信仰は、そうした愚かしさとつねにともにあらざるを得ない。
信じさえすれば何事もなし得るというのは、あからさまな嘘である。
けれども信じなければ何事もなし得ないというのは、極めて真実だ。
信じるということは、信じない心から目を背けるということだ。
信じないということは、信じる心から目を背けるということだ。
すべての戒めについて、それを守りさえすれば良いと捉えてはならないという、高次の戒めがある。
すべての断言は、逡巡の裏側である。
すべての人間が、人のことを否定することなしには自らの自我を支えられない。
すべての人間を黙らせるよりも、自分の耳を塞ぐ方が早い。
すべての表現には、そうするに値すると自ら前提しているような救いがたい厚かましさがある。
言い訳を前置きしたとしても、それは無駄なことだ。
「狡い」というのは、負けた側の人間が自己合理化のために使う言葉だ。
政治が腐敗しやすいのは、そもそも集団というものの根が、始めから腐っているからだ。
誠実さを金で買うことはできない。
なぜなら、誠実さを金で買おうとするのは、誠実なことではないからだ。
誠実さを笑う者は、それを知らない。
だから、知らぬものを笑っているにすぎない。
誠実な人間でなければ、人が持つ誠実さを深く理解し、正しく測ることはできない。
けれども誠実さを測ろうとすること自体は、決して誠実なこととは言えない。
だから誰にも、人の誠実さを測ることはできない。
正常とは、異常をよく制御しえている状態のことだ。
異常を根絶やしにしてしまおうとすることは、まさしく異常だ。
生は悲しみを癒すためにあるのではない。
また、怒りを静めるためや不安を消し去るためにあるのでもない。
世界のあるべき姿を求めるところから、敗北が始まる。
自分のあるべき姿を求めるところから、勝利が始まる。
説得が必要だということは、素晴らしさが足りないということだ。
全能なる神の観念は、無力な人間という観念を引き連れてくる。
しかし、それでは順序が逆だ。
まずは自らの無力さを感じる。
そうして、完全なる存在というものを夢想する。
想像のない生き物に恐怖はなく、恐怖のない生き物に勇気はない。
相対化は目先の虚無を減らしはするが、しかし同時に虚無の底上げをしてしまう。
育ちの善い人間は、他人の悪意が理解できない。
育ちの悪い人間は、他人の善意を受け取れない。
それ自身への疑いなしには、どんなに深いものであっても、疑いの名に値しない。
それ自体一つの作品たりえないような単なる批評の言葉が、作品そのものに勝った例は一度もない。
それと意図して許したりするよりも、自分が関わるべきことに意識を向けて、人の過失など忘れてしまう方が良い。
それぞれが心に抱える悲しみは、本当の意味では他の誰にも理解されることがない。
けれども、それは一つの僥倖である。
なぜなら自らの悲しみを、人に味わわせずにすむからだ。
尊厳とは、自分でしか納得させることのできない、自分自身についての意識である。
妥協は諦めではない。
本当は求めてなどいなかったということが、ただ明らかにされただけの話だ。
妥協を拒否する心だけが、諦めというものの甘さ、美しさを味わうことができる。
対抗するということは、すでに取り込まれているということだ。
怠惰な心は、格闘せずになし得るのが天才だと思いたがる。
しかし実際には、格闘し得ることこそが天才である。
確かに、金は力である。
しかし人は、力を賛美すべきではない。
正しいことの多くは、人から非難されないためか自我を支えるために行われる。
だから正しさとは、しばしば恥ずべきことである。
正しければ良いという訳ではない。
しかしだからといって、正しくなくても良いということにはならない。
正しさというものはすべて、それに捕らわれてしまうことの誤りと、深く結び付いている。
ただ弱者だけが、攻撃すべき相手を見出す。
ただ「分かった」と叫びたいがために答えを探すその愚かしさが、どんな賢さの中にもいくらかは含まれている。
楽しませられることより、自ら楽しむことの方がつねに高い。
娯楽とは追従であり、つまり奴隷である。
騙されやすい人というのは、つまり嘘を信じたがっている人のことだ。
魂は欺瞞に噎せ返る。
つまり、飲み込めば犯されてしまうものを初めから知っている。
しかし欲望に唾を飲み下し、いつでもそれを抑えているのだ。
魂は孤独だが、精神は一つのものである。
人性は変わることがないけれども、人はそれぞれが、それぞれだ。
誰しも自分自身にとって十分なほどまで、強くはない。
だから、そのことを表現する必要などない。
ただ自分自身で分かってさえいれば、それで良いのだ。
誰にでもできる仕事をする者は嘆き、そうでない者は苦しむ。
誰にでも求められるものを求めるのは、誰かの欲望であって、その人の欲望ではない。
誰の助けもないということが、最も大きな助けだ。
誰もが受け取りうる快は、同時に一つの不快であらざるを得ない。
血は水よりも濃いという物語は、血や水よりも濃い。
忠告というものはすべて、「私の思い通りの世界であれ」というあの醜い叫びの変奏にすぎない。
挑戦は逃避と不可分だ。
強さは理解など求めはしない。
だから表現は、つねに同時に弱さの表現である。
辛ければ、ときには誰かの助けを借りてもよい。
けれども、辛くなったら誰かの助けを借りればよいのだと思っていてはいけない。
どうあっても笑われまいとしている人ほど、滑稽なものはない。
同情には、自分の基準がいつでも通用すると考えているような救い難い無邪気さがある。
特別な人間は、他の人と同じように扱われれば自分の特別さが際立てられるということを知っている。
特別扱いされたがるのは、少しも特別ではない人間だけなのだ。
独話が極端な嘘に陥りがちなのは、対話よりも独話が嘘を許さない傾向が強いからである。
一方、対話というのは適度な嘘を互いに許し合うものだ。
どんな諍いも、いくらかは架空の敵との戦いであり、それゆえ必ずどこか馬鹿げている。
どんな行動も伴わせずに、ただ心の中だけで何事をも裏切ることができる。
それは人間の心が持つ、暗いが、しかし痛快な部分である。
どんなに大きな絶望も、自分自身よりは小さい。
深い絶望の原因は、肥大した自我にある。
どんなに押し広げようとも、一人の人間が知り得る世界は酷く狭い。
だから大切なことは、自分が知らぬもの理解し得ぬものへの予感を失わずにいることだ。
どんなに重みのある言葉であっても、表現してしまうということの中には、拭いきれない軽率さがある。
どんなにそれが遍在していようと、誤ったことが正当化される訳ではない。
つまり正しさには、万人に勝利し得る力が宿っている。
けれども力を得ようとして正しさを求めるならば、そのこと自体の誤りによって人は過つのである。
長らく欲しいと思っているものには高い代価を払っても許されるのだと、多くの人間がそう思いたがっている。
なぜ管理されてしまうのか。
それは、庇護を求めているからだ。
なぜ信ずるものは救われるか。
それは単に、神を信じるなどということがもしできるのならば、その者はその無邪気さのゆえにすでに救われているというにすぎない。
まさしく信ずるものは、すでにして救いがたく救われている。
なぜ人を殺してはいけないか。
それは人殺しによって社会が脅かされることになるからだ。
では、なぜ社会が脅かされてはならないのか。
それは人間が社会を必要としているからだ。
しかし、なぜ人間は社会を必要とするのか。
それは一人一人の人間が、極めて弱い存在でしかないからだ。
それでは、なぜ人間は弱い存在であるのか。
そのことに理由はない。
それは単なる事実だ。
なぜ皮肉を言うのか。
それは苛立ちが憎しみに変わってしまうのを、食い止めるためだ。
なぜ学ぶのか。
それは、世界を変えるためだ。
自分が世界を見る見方を変えることで、自分にとっての世界を変えるためだ。
何ごとであれ、肯定的にも否定的にも説明しうる。
けれどもだからといって、説明が虚しいものであるということにはならない。
むしろ、その逆である。
何を好んでいようと、その好きである理由が正しいものとは限らない。
好きであるからといって、その好んでいるものをよく理解できているとは限らない。
何を作り出すのであれ、作り手は自らの作品の価値を信じていなければならない。
しかし同時に、それを深く疑ってもいなければならない。
つまり作り手はつねに、葛藤を生きなければならない。
汝自身を知り、汝自身に従い、汝自身であれ。
何らかの仕事をこなすという点においては、人間も機械も同じだと言える。
では何が違うのか。
違うのは、自らの意志である。
それはつまり、自らの意志であるとはっきりと自らに言うことができないような仕事をする人間は、機械に近いということだ。
逃げたことが度々思い起こされるうちは、まだ逃げ切れたとは言えない。
偽者の楽しみは安易さと繋がっていて、だからそれは虚しい。
本物の楽しみは厳しさと繋がっていて、だからそれは憂鬱だ。
人間だけが、身の程を知り得る。
しかしまた人間だけが、身の程を知らない。
人間であろうと何であろうと自己についての意識を持っているのならば、その生き物は不安に怯え、また孤独であるに違いない。
人間とは何か。
それは、その問いそのものだ。
つまり人間とは、人間とは何か、である。
人間には完成というものがない。
それは人間の、極めて完成された姿である。
人間は、現在と同じ状況が続くことへの大きな期待を持っている。
それが非常に不当なことであるにも関わらず、である。
人間は自由だ。
つまり、それと意図せずに人を害してしまう契機の連なりだ。
人間は何を望むかによって、すでに選ばれている。
人間は、人から与えられたものには決して満足しない。
このことは人間にとって有利な現実である。
なぜなら、人から与えられるものによって満足するなら、人間たちは互いに強く従属し合うようになるだろうからだ。
願いは、ただ叶えば良いというものではない。
それは意志をもって叶えるところにこそ意味がある。
だから図らずも叶ってしまうものではない願いの方が、より高いのだ。
飲み込みやすい物語は、心を麻痺させる毒だ。
嵌めていた枠をなくせば個性的な人間ができるとするのは、枠に嵌められた人間の没個性的な幻想である。
反社会性というのは、社会に対抗しながら、しかし心の奥底ではやはりそれによって社会に認められることを求めているのだから、結局はじめから分裂した志向である訳だ。
悲観主義も楽観主義と同じく、世界を単純なものと見なせるよう前提している点では、極めて楽観主義的である。
人から教えられた通りに世界を見る人間は、それが成り立たない部分を無視し、あるいは破壊しようとする。
人から直接に学び取ろうとする安易さの中で、人は学ぶべきものを学び損ねる。
だから少なくともその後で、安易さから、学ぶべきものの学び方を独りで学び取らなければならない。
人とは違うと思って、それを喜びとするのは卑しいことだ。
人と同じだと思って、それを慰めとするのは貧しいことだ。
人に不満を抱くということは、その相手に期待しているということだ。
けれども、そうした期待が妥当なものであるかどうかは、つねに問題にすべき話だ。
人に優しさを求めるよりも先に、自らが人の優しさに値する者であろうとするような、そういう心に対してこそ優しさは相応しい。
人の誤りを指摘しても、自分がより正しくなれる訳ではない。
人の好意を求めることは一つの祈りであり、それは他のすべての祈りと同じく、誰も聞いているものなどいない。
人のことが許せないのは、その人との関わりの中で感じた自分の無力さが許せないからだ。
人のことを理解しようとすることは、自分では理解できない部分が相手の中にあることを理解しようとしないことなのだから、つまり人のことを理解しようとすることではない。
人は世界を捉え直し続けなければ、世界に捉えられてしまう。
人は、求めているものより、求めていることを求めている。
つまり、求めていることこそが、人が求めているものなのだ。
人は理解の度に、理解の持つ力を同時に理解する。
人を試したいと思う心は、その誘惑に負けてしまわないかという点において、まずもって自分自身から試されているのだ。
皮肉を言うときには、そうしないではいられないことの皮肉さもまた意識できていなければならない。
皮肉というものがしばしば内心得意げに語られてしまうことは、皮肉の皮肉な姿である。
表現するということは、つまり理解されたがっているということだ。
だからどんなに非人間的な表現であっても、それが表現であるからには極めて人間的なものなのだ。
表現するということは、笑われるということだ。
だから誰にも笑われたくないなら、決して何も表現などしないことだ。
表現をして笑われてから、もしそれを不当だと表現するなら、そこにある無邪気さによって恐らくはもう一度、笑われてしまうに違いない。
表現の手前には、堰を設けなければならない。
だから、それを越えられるものだけが表現されるのでなければならない。
平等は人間が互いに互いを意味付け合う力を弱め、自由はそれぞれの人間に自分の無力さを思い知らせる。
自由と平等に心から感謝できるような人間は、ほとんどいない。
不安定な心は、自分の価値観が通用しない相手を軽蔑しようとする。
自分を脅かすのは取るに足らない存在でしかないと、そう思いたいからだ。
不安の数の方が、困難の数より常に多い。
不快なことは印象的であるから、気分のままに過ごせば人は悲観的になってしまう。
不幸は、それに見舞われたときに「なぜ私なのか」と託つ心を、特に狙っている。
不平等は無数にあるが、平等は唯一つしかない。
偏見の典型は、偏見を否定的にだけ捉えるという、その偏見である。
本当に素晴らしいと思うのならば、認められないものであればあるほど表現をする価値は高い。
それが価値の裏側であり、裏側の価値だ。
本当に満足した人間は、満足だ、などとは言わない。
表現はつねに、不満足の発露である。
本当は我慢を受け入れるよりも、拒否する方が難しい。
それがもたらす結果こそは、求められた我慢より厳しいものであるからだ。
けれども多くの人間は、そのことを認めたがらない。
なぜなら、無力さのせいで我慢を受け入れる自分の姿が屈辱的であるからだ。
毎日が同じに見えてしまうのは、微かであり僅かな、しかしだからこそ重要だと言えるような差異を見出すその力が、本人に欠けているからだ。
間違ったことを言えば、非難される。
正しいことを言えば、もっと非難される。
自ら選択などしていないものを強いられて受け取るなら、屈辱を感じるだろう。
だから生は、初めから逃れ難く屈辱なのである。
自ら、自ら選び、自らにより選ばれる、自らであれ。
見た目が大事だと言うことも、そうではないと言うことも、どちらも酷く卑しいことだ。
無関心は、それぞれの人間が自分の心を守るための、有効な手段である。
目的としての懐疑は、その着目への酔いである。
最も多くの人間を殺してきた道具。
それは銃でもなければ、原爆でもない。
正義という言葉だ。
もっとも可哀想な人間というのは、人から可哀想だと思われたい人間のことだ。
もっとも醜いこと。
それは、自らの醜さを認めようとしないことだ。
求めることは、強さを要請する弱さの表現である。
物語が大事ならば、世界を狭めろ。
世界が知りたければ、物語を捨てろ。
ものを書くということに課せられた、最も大きな目的とは何か。
それは安易な物語を排しつつ、生を肯定することだ。
優しさが大事だと言う人は、それによって少し、相手に優しさを強いている。
だから、その人は恐らくあまり優しい人ではない。
優しさにはそれを諦めること、つまり自分の優しさが届かないことを受け入れるということが含まれている。
野蛮人は他の誰かを野蛮人と決めつけ攻撃することで、その野蛮さを自ら証明し続ける。
優越感は醜い。
劣等感もまた醜い。
そもそも自分を人と比べることが、醜いからだ。
けれども誰も自分だけを見て、立ってなどはいられない。
つまり、人間はその醜さから逃れられることができない。
有能であろうとすることは、すでに一つの敗北だ。
縦えもっとも優れた者になれたとしても、初めにその序列そのものに屈したからである。
要求とは、すべての人間への抗議であり、世界に対する呪いである。
欲望とは、自己意識から逃亡するためのからくりである。
欲望を抑制し得たことを喜ぶのも、欲望の衰えを嘆くのも、それ自体が一つの欲望の現れだ。
酔った勢いで口からこぼれた言葉よりも、素面のときにそれを抑えている気持ちの方が、より深い本音である。
理解されるということは、理解しうる程度のものでしかないと侮辱されることでもある。
理解は、感謝や賞賛をしたりされたりすることよりも深い、世界との和解である。
理解は世界への愛だ。
表現は世界への憎しみだ。
理由などはどうでもいいから、どうすれば良いのかを教えてくれ。
これが奴隷の叫びである。
我々が理由も告げられずに様々なことを押し付けられるのは、奴隷がその種を撒いたからだ。
倫理の本当の姿は、「ねばならぬ」ではなく、「でしかありえぬ」である。
冷笑や厭世の裏には、しばしば誠実が、それも敗北した誠実が、隠されている。
論理は単に論理であるだけではなく、同時に物語でもある。
無数にある中からその論理を選び出すという物語が、そこにあるからだ。
笑いには、すべてのものを笑いうるというところに大きな力がある。
だから禁忌を設けることが、笑いについての禁忌なのだ。