随想

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頭頁


君は大人になったのではない。

角が矯められ、半分、死んだのだ。

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気違いじみた真実は、気違いに語らせれば良いのだ。

物語とは、なんと素晴らしいものか。

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愛するとは、どういうことか。

それは、好むことだ。

そして、惜しむことだ。

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慎ましくあろうとうする者は、人間はそうあるべきだなどとは、言わないのではないか。

そういう表現自体が、そして、そもそも表現というもの自体が、すでに慎ましさから食み出したものなのではないのか。

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君の言葉は叫びではない。

だから、すぐに途切れるのだ。

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特別な場所へ行くのにも、当たり前の道があるだけだ。

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独善に陥らないようにしていると自ら言ってしまうようなことは、それ自体、一個の独善だろう。

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散ってしまった後で、もう一度、その花を心の中で愛でなければならない。

それが、惜しむということだ。

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過去に求めていたものをいま求めるのではなく、いま求めるべきものを、いま求め出すことだ。

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生きているだけで素晴らしいなどという言葉は、人間に対する侮辱以外の何ものでもない。

素晴らしいものは、人間が意志をもって作り出すものの中にだけ、存在する。

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慰められた人間は、誇りを汚され、行き場を失うだろう。

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起こってしまったすべてのことは、もう遠ざかるしかない。

それは痛みで、慰めだ。

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生きるための生活に、殺されぬように生きろ。

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意識的であろうとなかろうと、自分の不満足を人のせいにする人間は、すでに半分、狂人だ。

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断定的な物言いは、意志を表すためのものであって、独善のためにあるのではない。

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愚か者になるのは簡単だ。

知らないことについて語ったり、違うものを同じだと考えれば良いだけの話なのだから。

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価値あるものに関わるための条件は、価値のないものに関わらないということだ。

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人を不幸にする人は、不幸な人だ。

不幸な人は、人を不幸にする人だ。

人を幸福にする人は、幸福な人だ。

幸福な人は、人を幸福にする人だ。

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自分を肯定してくれるものを探し出そうとする人は、多分、何も見つけられない。

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あるがままを肯定されたことのない人は、それを人に強く求めて、相手があるがままでいることを肯定できない。

だから結局、いつまでも自らの望みは叶えられることがない。

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不幸になるためのコツは、人に期待して生きることだ。

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過去の記憶が美しいのではない。

過去を肯定する所作が美しいのだ。

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人から無条件で受け入れられたいという気持ちが、自分にないと言えば、嘘になる。

けれども、自分を無条件に受け入れてくれるというのを、自分が誰かを受け入れるための条件にしたとして、そんなものが許されるなどとは、思っていない。

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変化がなければ、物が売れなくなってしまう。

けれども、パターンは無限にある訳ではない。

だから、流行はいつも、繰り返される。

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そもそも表現とは、決め付けではなかったか。

だから、そこでは逡巡も譲歩も、救い難い愚かしさと共にあるのではないか。

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自立できていない人というのは、自立すること以外では解決できない不満を、いつも心に抱えているのだと思う。

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心の貧しい人は、人を信じることができず、人に期待ばかりしていて、しかし、それが裏切られると、信じていたのに、と嘘を言うものだ。

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人のあり方に対してとやかく言いたくなるときは、自分の状態が悪いときだ。

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不自然な人間の息苦しさは、すぐに伝わるものだ。だから、その人の周りには、鈍感な人間しか集まらない。

けれども、本当に必要なのは、人の考えを先回りして役割を演じてしまう自分を、深く理解してくれるような、そんな感じやすい人間なのだ。

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誰に愛されずともものともしないような、そんな気高い魂をのみ、私は愛そう。

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すべてをガラス張りにして、公明正大そうな顔をして見せるけれども、あなたはただ誰からも攻撃されない場所に、逃げ込もうとしているだけではないのか。

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お金を受け取って少しだけ嬉しくなると、同時に、どこか騙されているような気持にもなる。

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侮蔑というものは恐らく、少しも表現されないときが、もっとも高い。

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殴りたくなるのはいつでも、殴るほどの価値もないものと決まっている。

だから、暴力はやはり、つねに一個の敗北である訳だ。

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孤独には、解がない。

それは、関係の中で、生まれるものであるからだ。

しかし恐らく、現実の関係において得られる解は、すべて局所的なものにすぎない。

孤独の中で、すべての解を一挙に掴み出すことを、私は夢想している。

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あなたが生まれてきた訳は、残念ながらありません。

だから、それは自分で拵えて下さい。

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現在というのは、いつでも、大きな転換点に

差し掛かっているとされるものだ。

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それは駄目だと言うのではなく、これが良いのだと言えるような、そんな人間でありたい。

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人を信じないということは、自分を信じないということだ。

だから、それは愚かしいことだ。

神を信じるということは、自分を信じるということだ。

だから、それは愚かしいことだ。

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相手の立場に立つことも、それが弱さから始まるのなら、ただ足場が定まらないだけのものになってしまう。

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人を理解しようとするのは、大切なことだ。

けれども、人のことが理解できたような顔をするのは、やはり傲慢なことだろう。

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悲しみを秘めれば、矜持は鍛えられる。

それは、危ういが、美しいものだ。

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事実ではないが真実であるようなものが、確かに存在する。

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肉体の快楽に捕らえられると、自分を弱者だと感じる。

精神の快楽に捕らえられると、自分を強者だと感じる。

けれども、それは一体、なぜだろうか。

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不幸は、受動。

幸福は、能動。

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諦めないということの中では、美しさと醜さとが、せめぎあっている。

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どんな崇高な考えより、貧しい人にひとつのパンを与えるその所作の方が尊いと、誰か言うだろうか。

しかし、その貧しい人が生きて、一体、何をするというのか。

崇高な考えを捨てるぐらいならば、ひとつのパンも口にできず、貧しさに飢えて死ぬべきだと、誰か言うだろうか。

しかし、飢えて死んでしまって、一体、何になるというのか。

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弱者に味方することは、非難されにくい。

だから、それは危ういことだ。

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胸につかえる苦しみは、人を辛くもさせるけれど、また、目覚めさせもする。

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酷く自分勝手で醜悪な考えを、それと意識しながら、しかし、偽りなく表現するというのは、そう簡単なことではないだろう。

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つねに意志的で意識的に生きる者などいない。

しかし、恨みの炎に燃やされぬよう、私は言うのだ。

すべて自分で決めたことだ、と。

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病気の人間から逃れようとしたら、一人になった私は、病気になってしまった。

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人間は、人の心にある箍(たが)を外させたいと願う。

だから、依存しようとする人は、魅力に欠けるのだろう。

なぜなら、その箍が緩すぎるから。

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威張る人というのは、自分が馬鹿にされていることを知らない。

だから、いつまでも威張っていられるのだろう。

威張る人というのは、自分が馬鹿にされていることを知っている。

だから、相手を押さえつけようとして、余計に威張るのだろう。

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特攻し、玉砕した兵士の、ヒロイズムを笑え。

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人の気に入られようとして言葉を探す自分から逃れようと、人から逃れた。

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メランコリアは、流れることがない。

それは、淀みそのものだ。

けれども、生が一つの流れならば、淀むこともあるだろう。

憂えることもあるだろう。

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何にせよ、ただ無邪気に求めることなどありえない。

向かいつつ、しかし、それに依存する自分に怯えて、喘ぎながら求める。

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心は、上に尖れば安定するし、下に尖れば不安定になる。

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現実にリアリティーを与えるのは自分自身だ。

例えばそれは、自らの無力を認めることによる。

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過ちが意志に基づくものでなければ罰せられないという考え方がある。

これを認めるには、但し書が必要だ。

即ち、もし人が意志に基づかない

過ちの上に居直るのならば、それは意志に基づく過ちであるため、やはり罰せられるべきものである、と。

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分かるということに潜む必然の相。

なるほど、分かるということには、如何なる虚飾もありはしない。

分かるということのどうしようもなさ、それは、生きるということのどうしようもなさに似ている。

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ますはじめに信じたいと思っていないのならば、誰も何も信じたりなどしないものだ。

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永遠に神は、何事も裁き給わず。

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厭世というものは最も低いものではあるが、やはり、肯定の所作なのだろう。

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辞書によれば、正義とは、社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持することであるという。

ここから、秩序を乱すものに対してはもちろん、どこまでを社会全体と捉えるかによっても、正義の人殺しが可能であるということが分かる。

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かけがえがないものなど、存在しない。

だからこそ、それはいつでも、探し求められる。

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人並ということには、目先の危険度が低いがゆえに

安易にそちらに向かってしまいがちだという危うさがある。

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確かに、彼岸なしには生は意味付けられない。

けれども、生を意味付けるために彼岸を信じるなどということは、決してできるものではない。

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知識の定着ということがある。

だから、分からずとも進め、だ。

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どんな主張も、もしそれが正しいとしたならどう行動すべきか、ということなしに語られるなら、単なる暇つぶしであると見られても仕方がないだろう。

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ある集団に受けいれられ安心してしまって、自分を一人前でまともだと思っているような人間は、酷く醜い。

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信仰を持つものは、人間の弱さを見つめないことを逃げだと見る。

不信仰のものは、その弱さへの居直りを逃げだと見る。

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誰からも好かれたいというような望みは、躓かざるをえない。

なぜなら、そういう望みをもつ人間を嫌う者が必ずいるから。

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自らが肯定されることによって生まれるのが、正の力である。

自らが否定されることによって生まれるのが、負の力である。

正の力の極限の形式は、あらゆるものの肯定である。

負の力の極限の形式は、あらゆるものの否定である。

正の力は、無邪気で罠に陥りやすい。

負の力は、偽りやごまかしに満ちている。

正の力だけでは、遠くまで及びえない。

負の力だけでは、自らを救い出すことはできない。

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根拠が怪しければ怪しいほど、頑なに信じるようになる。

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無限だとか永遠だとかそういうものは、慰みごとにすぎない。

それをまともな考えに組み入れようするようなことは、子供の夢想にすぎない。

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誰もが、満足を求めている。

けれども、すべてに満足しているのがもっとも素晴らしい人間であるとは、恐らく、言えないだろう。

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絶望した者に問う。

絶える前に抱えていたその望みは、果たして正当なものであったのか。

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どんな人間が流すかによって、涙の重さは変わるだろう。

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形のないものどもは焦燥を募らせるが、しかし、求めているのはやはり、そうしたものなのだ。

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どんな対象も持たず、虚空から心に注がれる悲しみというものがあるだろう

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すべて価値あるものは非常な均衡の中にあって、だから、いまにも崩れようとしている。

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否定というものは、対象を拒絶し捨て去るためにあるのではなく、それを通して否定し得ないものを浮かび上がらせ、結局そこから、肯定すべきものを掬い出すためにあるのではないか。

即ち、精錬のための道具。

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安易に分かり合おうとすることは、それぞれの存在の、様々なあり方を無視するという意味合いにおいて、人間に対する侮蔑なのだと思う。

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誰も、自らの死を知らない。

だから誰も、それを望むことはできない。

つまり、君は死にたいのではなく、生から逃れたいだけなのだ。

そして、そこにある違いを同じと見做す欺瞞こそが、君の弱さの訳なのだ。

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信じるということは、理由なく正しいとするということだ。

だからそこには、理由がなくてもよいとするその理由が、あるのに違いない。

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世界が自分の思う通りではないことに怯えた人間が、怒りという病に、憑かれてしまうのではないか。

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私が持つ優しさなどは、自分に余裕がなくなれば、すぐにも消えてしまうだろう。

けれども、だからこそ、いくらかでも残っているときには、それが、大事なものと分かるのだ。

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テレビは人間に、緩慢な死を与える。

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君は君でやりたまえ。

君は君でありたまえ。

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毎日は、必ず爆発しない爆弾を、延々と作り続けるようにして過ぎていく。

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なすべきことから逃れようとする自分から逃れるように、無為へと逃れた。

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若さとは、例えば、自分が誠意を見せれば相手も変わってくれるのだと信じてしまうような、甘さだ。

それは、必ず敗北しなければならないものだ。

そして、その後で少しだけ、保持されなければならないものだ。

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完全とも言える穏やかさは、目に見えないほどに小さい、恐ろしさの集合だ。

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私は神など信じないと そう叫びながら、けれども それを誠実と思うがゆえに、縦え否定された神であっても冷たく応えはしないのだと心密かに呟くとき、捉え難くも微かに、私は神を信じているのかもしれない。

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同情の持つ卑しさが理解できない人間には、同情を禁じ得ない。

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本当のことを知りたいのではない。

それを知らぬこと、知ろうとしないこと、そして、知ってはいても目をそむけようとすることの中に潜む、その醜さを、避けたいと願っているだけのことだ。

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病的な人間というのは、同じ状態に留まろうとして、それを安定と名付けたがるものだ。

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花は咲き乱れている。

ただ暗くて見えないだけだ。

ならば 暗闇の中で花咲かせるものは、人の思いではないだろうか。

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いつでも、様々なものが煩わしく思えていたが、本当に煩わしいのは、ただ自分の無力さであったのらしい。

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自分が求めているものを相手に知られてしまえば、縦えその後で得られたとしても、それは偽者なのではないか。

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魂の錬金術は、卑しさを偉大さへと変える。

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多くの人が、自分がいまいる場所から長らく移動をしなければ、風景というものが存在しないかのように振舞う。

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分かったような振りをするな。

何も分からぬなどと開き直るな。

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能力のない者は人から重荷だと思われ、能力のある者は人の尻拭いをさせられる。

だから、どちらも嫌な目に会って、結局、社会に属するということは、そういうことなのだ。

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悲しみに叫べば、心に穴が空く。

悲しみによって空くのではない。

叫びによって空くのだ。

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止まない雨はないだろうが、自分が死ぬまで降り続ける雨は、十分、あり得る。

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もし望みが叶ってしまえば、それから、どうしたらよいだろうかと、そんな不安をなくしてくれるものを、待ち望んでいる。

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涙の塩辛さが魂を目覚めさせるのであってみれば、人は元来が、生まれてすぐに泣き出さねばならないものであるらしい。

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情が絆しとならぬ、人の心を修羅という。

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求めれば得られるというのでもなく、求めなければ得られないというのでもない。

ただ、本当に求めることなく得られたとしても、それは喜びにはならないということだ。

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対等ということを知らない人がいる。対等という言葉を知らないというのではない。人と対等な関係を取り結ぶことができない人のことだ。

そういう人間は、人との関係の中で、従属するか君臨するか、そのどちらかを目指すことしかできない。

だから、相手の提案を懇願として受け取り、求められた同意に対しては、自分が相手に与える許可としてそれを示す。あるいは、人の提案を命令と捉え、それに同意することを屈服と感じてしまう。

自分が強い立場ではつけ上がり、弱い立場のときには、過度に依存しようとする。

そうした人間は、自分以外の者を一人の人間として尊重することができない。だから、当然、誰からも尊重されないで生きなければならないことになる。

それは、悲しいことだ。

それは、とても悲しいことだ。

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若き日は、功名心で喉が詰まり、息苦しさの中で虚しく、費やされてしまった。

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このサイトにあるすべての文章は、機械にでも作ることができる。

ランダムに生成した語を組み合わせて機械が自動的に作る無数の文章の中に、ここに存在するすべてが含まれているというような考えは、決して突飛なものとは言えない。

けれども、その膨大な文章郡から、ここにあるものだけを選び出すのは、難しいことに違いない。

それどころか、何かを表現していると言えるものを抜き出すことさえ、簡単なことではないのだ。

例えば、意味とは、そうしたものである。

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最も大きな絶望を見出す者は、最も大きな希望を見出した者だ。

最も大きな希望からでなくては、最も大きな絶望は見えないのだ。

ただの希望。

そんなものは、存在しない。

ただの絶望。

そんなものは、存在しない。

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本を大事に扱わねばならないほど、人生は長くない。

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狙わなければ、当たらない。

狙えば、狙いすぎて外れる。

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悪い環境をなくせば非行はなくなり、差別語をなくせば差別はなくなる。

祈りをなくせば狂信はなくなり、科学をなくせば兵器はなくなる。

何より、心をなくせば、必ず、すべての問題はなくなるのだ。

では、結局のところ、原因とは何であるか。

それは、何かに責めを負わせようとする心、そのものだ。

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褒めるべき人間を褒められる人間が、褒められるべき人間だ。

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僕に対して不誠実なことをしたすべての人に、僕は言う。

僕は、あなたと同じにはならない。

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鮮やかな色彩を言葉を尽くして表そうとするような、逃れ難い虚しさに薄く包まれて、言語に関わる世界は、少しだけ病んでいる。

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例えば、踊りの輪の中で、ただ一人転んでしまうのが、人間の姿だ。

もちろん、他に踊っている者たちもまた、人間には違いない。

けれども、そこで一人だけ転んでしまうというのが、私がそれと見做す、人間の姿なのだ。

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自らの存在を捉えようとしながら、しかし、決して完全には捉えきることができないという、その虚ろな隙間から、不安が産声を上げたのらしい。

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毎日、空を見上げる度、その姿に驚愕する。

少しも大袈裟な表現でなく、驚愕する。

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話し合いさえ持てば誰とでも分かり合えると、だから、「話せば分かる」と考える人がいる。

けれども、そういう人というのは、話しをしても分かり合えない人がいると話されたときには、それが分かるのだろうか、分からないのだろうか。

もし分かるとすれば、それ自体、自分の主張と矛盾することになる。

また、分からないとするなら、自分自身が「話せば分かる」ということへの反例となってしまうだろう。

結局、分かるにしても分からないにしても、おかしなことになってしまう訳だ。

だから、そもそも「話せば分かる」などというのは、意味不明なことを口走っているだけ、ということなのらしい。

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彼は遁世者である。

その有り様は、恰も無欲の人のようだ。

しかし、不快を避けるという意味合いにおいては、彼ほど強欲な者はいない。

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自分の辛さを訴える人たちへ。

あなたがたの大変さは、よく分かった。

けれども、そんなことに興味はない。

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凝視すればするほど崩れてしまう平衡を凝視して、ずっとよろめいていた。

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病人はいつでも、そろりそろりと歩くものだ。それが実際には意味のない気遣いだとしても、そう歩くのだ。

それは、臆病でもあるのだが、しかし、賢明さでもあるだろう。臆病と賢明さとは、いつでも隣り合っている。

誰しも、自らの体がいつも自分の言うことを聞くわけではないということを、一応は知っている。けれど、実際に具合が悪くなってしまえば、何かしら裏切られたような気持ちになるものだ。

どういう行いがどんな報いをもたらすか、それは誰にも分からない。

だから、何かの報いで病気になってしまった病人は、また別の何かによって新たな病に捕らわれてしまわないように、そろりそろりと歩くのだ。

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すべては、冗談だ。

だから、すべて、冗談ではないのだ。

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日本人的狂気。

重要と見做されるものについては、一応、会議などで諮られるが、実際のところは、頑なに自らの考えを押し通そうとする一部の人間の主導によって、ほとんど逃れがたく決定がなされる。

実行の段階では、その途中でどんなに不具合が起きようとも、「もう決まったことだから」、「皆で決めたことだから」などとして、決して中止や後戻りはしないし、できない。

剰え、破滅の直前という状況においても、とにかく当初の考えのままに行うのが「潔い」とされ、悲劇的な結末へと突き進む。

結果として計画が破綻しても、本当に責任を負うべきか疑問としか言いようのない人間をスケープゴートとして、それ以外の人間は自分の非を認めようとしないし、当然、自らの何ごとをも変えようとはしない。

結局、病的傾向は何ら修正されることのないまま保持され、その事実から目を逸らそうとする心理とも相俟って、同じような失敗をまさしく偏執狂的に繰り返す。

つまりは、いつまでも「和を以って貴しと為す」という訳だ。

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もし君が、僕のいないところで、僕を悪く言うようなことがあったとしても、君には何か事情があったのだと、僕はきっと、そう思うだろう。

けれども、それは一体、愚かしいことだろうか。

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祭司は、町に住む人々の幸福と平和を願い、神に祈りを捧げた。

少しも休まず、だから、食事も取らず、眠ることもなく、祈り続けていた。

町の人たちは、その姿に心動かされ、一人、また一人と、祈りに加わりはじめた。

ついには、町に住む人すべてが集まり、祭司の声に従って、聖なる祈りの渦を作っていた。

こうして、すべての人が飢え死にして、その祈りの結果を受け取った彼らは、天国か地獄か、あるいは別のどこかへと行ってしまった。

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お金は私にとって、命の次に大事なものだ。

だから、悪魔から、「使い切れないほどの金をやるから、両腕を切り落とし差し出せ」と言われたとき、私は二つ返事でその言葉を受けた。

いまや私は、自分の手などなくても、生活に必要なことはすべて周りの人間がやってくれるという、そんな素晴らしい環境の中にいる。

そして、毎朝札束の中で目覚め、幸せな気持で一杯だ。

とにかく、私はいま思う存分嘲ってやりたい気分なのだ。

そう、貧乏人どもを指さし、手を叩いて。

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与えられようとばかりしている人は、いつも不満を抱えている。

そこから学ぶべきことは、自分が不満を感じているときには、自分が人から与えられようとばかりしていないかを考えてみるべきである、ということだ。

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人間の持つ弱さが、その叡智を作り、また、支えている。

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偉大な人間も、卑しい感情に突き動かされていることがしばしばなのではないか。

ならば、つまりは、自らの卑しさを偉大さに変えようとすべきなのだろう。

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自分が許されるために相手を許すというのではなく、自分が許されないために相手を許さないというのが、真っ当な関係というものだ。

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人間は人から与えられたものによって、幸福になれたりなどしない。

だから、誰かが誰かを幸福にするなどということは、そもそも存在しない。

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忠告というのはいつでも、当たり前のことにすぎない。

つまり、当たり前のことを意識化するのは、いつでも不足していて、けれども、大切なことなのだろう。

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もしも解決が訪れるとするのならば、それは間違いなく瞬時に現われる。

そのことを知って、いつでも焦燥を制御することが大切だ。

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努力なしでは得られないがゆえに価値があるとされているものを、努力なしで得たいと考える者が少なくない。

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わがままの大半は、言わずに分かってもらおうとすることであるようだ。

だから、君がはっきりと口に出さずに人に理解してもらおうとすることを避けるように気をつけるなら、君は君のなすだろうほとんどのわがままを避けられるに違いない。

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開き直りは、最も安易な自己肯定だ。

だから、醜い。

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誤りそのものや、誤り方が指し示す真実というものがある。

けれども、誤ることの大切さは、いつも、十分に示されてはいない。

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戦争は悪いものだと考え、戦争に反対して、戦争をした人間を糾弾する。

そして、だから、自分は正しいのだと思う。

そんなものは、子供の理屈にすぎない。

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感情の赴くままにさ迷う者は、決して自由ではない。

彼は、単なる感情の奴隷に過ぎない。

自由はただ、意識的な選択の中にだけ、あるものだ。

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すべての証拠を与えられて、然る後に信じるなどというのは、ありえない話だ。

つまり、人を信じるということは、一個の意志である。

だからこそ、それは、美しいものなのだ。

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ごまかしというのは、いつでも、何かをごまかしたいと思っている人間にしか通用しないものだ。

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誤りを経ない正しさなど何だろうか。

我々はいつでも人が分かってしまったことの結果だけを受け取り過ぎている。

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純粋なもののために生きるということは、それ自体、堕ちて行くことなのだ。

なぜなら、それは、敗北するのが必定であるもののために、生きるということだからだ。

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愛されたいという素振りを見せない人の方が、愛されやすい。

それは、愛情の皮肉な秘訣だ。

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反復ということの中には、それを見つめる意識と実現させる意志とがある。

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何かを強調するときには、その白々しさや馬鹿らしさをもまた、意識できていなければならないだろう。

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知は人に見通しを与えるが人を導くものではない。

しかし、知への愛は人を導くものとして存在する。

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醜い感情こそが、傲慢さを殺してくれる。

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