小説 「顔」

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第一回


ヨシタカは引越しのときに使うビニールの紐で両手足を縛られて、床の上に寝転がらされている。俺たちの溜まり場であるノブヒコの部屋は十二畳くらいもある広さで、家の外側に付けられた階段で直接出入りすることができる。風呂こそないがトイレも台所もあって、ノブヒコの親に顔を合わせる必要がないのがいい。ヨシタカは、ミチオとノブヒコと俺とでミチオの車に乗せてここまで連れてきた。ヨシタカは何も抵抗しなかった。抵抗すれば痛い目にあうことが分かっていたからだ。

俺はヨシタカの足に、靴下の上からポットのお湯をかけた。「熱いっ」と声をあげてもがくヨシタカの姿がおかしくてたまらない。ミチオが「熱湯かけられたんだから、そりゃ熱いだろ、そのまま言うんじゃねぇよバカ」と言って笑った。ヨシタカは黙ったまま、床を見つめている。

「下らねぇこと言ったんだから、謝れこの野郎」

ノブヒコがヨシタカの背中を蹴飛ばした。返事を聞こうとして俺たちが静かになると、ヨシタカが力なく言った。

「すみません」

今度はミチオが「熱いから熱いと言ったのに、何を謝ってんだ」と言って、ヨシタカの頭を持っていた木のバットで小突いた。俺たちにいじめられ出した半年前ならば、こういう場面では目を泳がせてどうしたらいいか分からない様子を見せていただろうが、今ではもうそんなそぶりも見せずにヨシタカは床を見つめてただ黙っている。眼の下の筋肉だけが少しだけ痙攣していた。いつでも、ヨシタカが屈服しているあいだはなぜ反抗してこないのかと腹が立ったが、少しでも反抗されるとヨシタカにはそんな資格などない筈だと感じて、強い怒りが込み上げた。

「こないだ、お前の母親に会ったぞ。いつも仲良くしてくれてありがとう、だってよ。バカな親だよな」と俺が言うと、ヨシタカはほんの一瞬だけ怒りを表情に出しそうになって、その後ですぐに媚びるような顔をした。その顔を見た俺は、ヨシタカを殺してやりたいと思った。

「よし、決めた」

俺は立ち上がり、ヨシタカを指差した。

「お前は、熱湯を掛けられてそのまま熱いなどと下らないことを言った罪と、熱いから熱いと言ったにも拘わらず謝罪した罪で、死刑だ」

ヨシタカは少し驚いたような顔をしたが、ただ黙って俺の顔を見ている。

「これから、処刑場の飛行機山まで貴様を護送する」

俺がそう言うと、ミチオとノブヒコはにやけながら縛られたヨシタカを立ち上がらせた。

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第二回


部屋を出ると、遠くを走る車の排気音で辺りの静けさを知らされて、少しだけ放り出されたような気持になった。階段を下りて、ミチオが無免許で乗り回しているミチオの母親の車に乗る。ヨシタカはノブヒコに頭を抑え付けられむりやり押し込まれるようにされたが、別に抵抗するでもなく自ら乗り込むようにして車に乗った。死刑を宣告され処刑場に連れて行かれようとしているヨシタカは、ひどく落ち着いて見える。

俺はヨシタカを早く殺してしまわなければいけないと思って焦りを感じていた。ヨシタカの中にある俺たちに反抗するどんな些細な感情も、もう許すことはできない。だから、殺さなければならない。車は俺たち四人が通っていた小学校の裏にある林の前で停まった。俺たちは、そこにある丘に登っていく。

俺がまだ小さい頃に自家用のセスナが墜落したことがあって、それからこの小さな山は「飛行機山」と呼ばれていた。昔から俺は、飛行機山に落ちたその飛行機を操縦していた男についておかしな考えを抱いていた。なぜかは分からないし実際とは違うだろうと思いながらも、俺はその飛行機をアメリカ製の戦闘機だと思っていて、乗っていた人間もアメリカの軍人なのだと想像してきた。その軍人はもちろん、上官に命令されたから俺たちの町の上を飛んでいたのだけれども、個人的にも軍人ではない人間たちが住む場所の上にこそ爆弾を投下しなければならないのだと考えて、戦闘機を操縦していた。

それがどんなものであれつねに日常には腐れた部分があって、だから男はその腐れた日常を爆弾によって破壊しなければならないと思っていたのだ。けれども、その男は墜落してしまった。飛行機を墜落させてしまった。そのとき男は「畜生」というような言葉を吐いたが、墜落して機体がバラバラになった後でも積んでいた爆弾は爆発することがなかった。だから男は歪んではいるが冴えたままの意識の中で、自分は犬死するのだと思ったのだ。

俺はそんな風に考えて、だから男の無念を晴らすためにまだどこかに残っているその不発弾を探し出して爆発させ、腐れた日常を破壊してやらなければならないと考えてきた。けれども俺は、飛行機山に登って自分から不発弾を探そうとはしなかった。なぜならそれは、爆発させるべき時がくれば自ずと俺の目の前に現れてくるのだし、だからきっと俺はその爆弾の前に次第に導かれていくに違いないと思っていたからだ。きっと、爆弾というものが発明されるずっと前から、その軍人と同じような思いを抱いて死んでいった人間たちが、地中に爆弾と同じように爆発するものをほとんど隙間なく埋め込んでいるのだろう。だから、もしそれらの一つでも爆発させることができれば無数の爆弾は誘爆を起こして、ついには大きな爆発がすべての日常を破壊するに違いない。

爆弾は俺にとってあるべきものだったし、また、なければならないものだった。なぜなら日常はつねに、そのままであってはならないものであるからだ。そして一部だけ壊された日常は、必ずまだ日常であり続けるからだ。一時にそのすべてを破壊しなければ、日常を壊すことはできない。それには爆弾がどうしても必要なのだ。爆弾の誕生以前からあるその無数の爆弾が、どうしても必要なのだ。

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第三回


爆弾の甘さに酔いながら俺は、先週行った英会話の教室での会話を思い出した。そのとき俺は、テキストに書かれてあるシチュエーションの通りに会話の練習をしていた。俺が枯れさせてしまった花を見た教師に、なぜ花に水をやらなかったのかと質問されて、俺は「強く育って欲しかったからだ」と答えた。すると教師は、意味が分からないという風に少し笑って、話をするときにはつねにロジカルに話さなければならないと言った。その言葉が頭に浮かんで、俺が爆弾について考えたこともまったくロジカルではないのだから、あの英語教師にも、そして英語を話す全ての人間たちにも、まったく意味していることは伝わらないのだろうかと考えた。そして、英会話教室などという自分が何をしたらよいか分からない人間のためだけにあるような、そんな下らないものに関わるのはもうやめにしようと決めた。

ミチオとノブヒコに両脇を抱えられて前を歩くヨシタカの尻を何度も蹴りながら、飛行機山の背の高い草の中を進んでいく。子供の頃に蜜を舐めていた花があったので、花びらをちぎって口に含んでみると、それは少しだけ甘かった。けれども、そこには苦みもまた僅かだが確かにあって、だから俺はこの地面の下にはやはり爆弾があるのだと思った。苦みは覚醒の味だ。どんな兵士も、訓練のときには目覚めてはいない。それは本当の戦闘ではないのだから、半分は眠ったままなのだ。しかし実際の戦闘で白兵戦をするとなれば、今度は目覚めすぎていて、ただ目の前の現実に捕らえられているだけの状態だ。だからそれは結局、半分眠っているのと変わらない。ただ戦闘機に乗って爆弾を落とそうとするときにだけ、つまり爆発による破壊を企てているときだけは、兵士は目覚めていられるのだ。そこには行動の中に埋没していない苦味のようなものがあるからで、結局精神が目覚めているということであるからだ。

花の蜜には苦味があった。だから、そこには破壊への意志もあるのだ。俺にとってそれは、あらゆる味というもの自体と同じく直接的なもので、否定という概念が意味を持たないほどに明らかな現実なのだ。

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第四回


俺たちは、従順な死刑囚を連れて飛行機山の上を通り過ぎ、学校と反対側の林へ続く麓まで辿り付いた。無数の送電線を支えるための鉄塔があって、それを囲っているフェンスに取り付けられたライトが辺りを少しだけ明るくしている。全員が車から降りると、俺はヨシタカに命令した。

「死刑囚のヨシタカ君。ここに穴を掘り給え。お前の死体を入れるための穴だ。」

ミチオが車のトランクからスコップを出して、ヨシタカの目の前に付き付ける。ヨシタカは黙ってそれを受け取って、自分の墓穴を掘り始めた。フェンスのすぐ側に掘られた穴はなかなか大きくならず、俺ははじめて、人が十分に入るような穴を掘るのが大変なことだというのを知った。ヨシタカは体から湯気を上げながら何かに取り憑かれたように、黙々と自分のための墓穴を掘っている。ミチオとノブヒコは、ヨシタカが掘って積み上げた土を足で蹴ってヨシタカの顔や体にかけて遊んでいたが、もう飽きてしまって、「もっと早く掘れ」とヨシタカを怒鳴り付けた。ヨシタカはより一層急いで、喘ぎながら穴を掘っている。それを見たノブヒコが笑って言った。

「こいつ、体から湯気上げて、目ぇ向いて、自分の墓穴、掘ってるよ。絶対、頭オカシイ。どうにかしてくれ。」

俺とミチオも笑ったが、ヨシタカは何も聞こえていないかのように、ただ黙々と穴を掘り続ける。その姿に苛立ったノブヒコが、もう一度、積み上げられた土を蹴ってヨシタカの顔にかけた。ヨシタカはそれでも自分を取り巻くすべてのことから逃れるかのように、懸命に穴を掘っている。ヨシタカに無視されたノブヒコは苛立ちに任せて何度も土の山を蹴り付けたので、ヨシタカの頭に土が積もったようになった。それを見て俺は思った。いまヨシタカが感じているのは、公園で砂遊びをしていたような幼い頃から、もう長いこと感じなくなってしまったような類もので、これから死んでしまうまでに抱くだろう感覚も、そんな風にひどく弱かった頃にしか味わうことがなかったものなのではないか。そして、強く脅かされたり、それが恐ろしくて泣いたり、完全な無力さを感じたりした後で、ついには生まれてすぐの赤ん坊よりも簡単に俺たちに殺されてしまうのではないか。

しばらくしてヨシタカは、自分が入れるくらいの細長い穴を掘り終えた。穴は長方形に近い形をしていたが、真ん中の底の辺りに大きな石が埋まっていたせいで、その部分だけ浅くなっていた。

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第五回


「なんか、真ん中だけ歪だなぁ、おい」

俺がそう言うと、ヨシタカは指摘されるのが分かっていたというように、顎を突き出しながら少し頭を下げて声を出さずに卑屈な笑いをした。俺たちがそろって中学へ上がった頃に始まってそれからずっと変わらないヨシタカの媚びるような顔と、自分の行動がヨシタカの想像の枠内に収まっているところを見せられ侮辱されたという思いとで、俺は普通とは違って一気に膨れ上がったりはしないけれども着実に大きくなっていくような怒りを自分の中に感じた。穴を掘り終えたヨシタカを地べたに座らせビニールの紐をきつく縛り直して、俺はヨシタカを見た。ヨシタカもまた俺を見て、俺が自分のことを殺したりなどしないことは分かっているというような優しげな顔を、ほんの少しだけして見せた。それは、ヨシタカが俺に対して示した最高の侮辱だった。自分の思っている世界が世界そのものだと思うその愚かしさと、俺さえもその無邪気で単純な世界に組み入れられているということに、俺は強い嫌悪を感じた。

確かにヨシタカの表情に反応するなど下らないことだ。けれども、もし俺がヨシタカを殺さないとすれば、ヨシタカの頭の中にある卑しい世界の住人に、俺が、そして世界のすべての人間が強制的にされてしまう。それは絶対に許されないことだ。ヨシタカが捉える世界が世界そのものではないということを、証明してやらなければならない。この焦りのために俺がやることはすべて、結局はヨシタカのどうしようもない愚かしさのせいなのだ。そう考えてから俺は、「ノブヒコ、そのスコップで頭のボールをホームランだ」とにやけながら言った。ノブヒコはヨシタカが墓穴を掘ったスコップを野球のバットのようにしてゆっくりと構えた。そして不敵な笑みを浮かべると、スコップを鋭くスイングしてヨシタカの頭を思い切り殴った。

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第六回


金属のものだが高く堅いのではなく湿った鈍い音がして、スコップは頭とは反対側の方へ跳ね返されて、それから地面で軽く跳ねた。ヨシタカは、首が付け根から折れたように曲がって、頭から倒れた。ミチオは驚いて目を見開いている。俺はノブヒコからスコップを奪って真上に振り被り、ヨシタカの後頭部へ力一杯振り下ろした。スコップはまた鈍い音を立て、地面とスコップに挟まれたヨシタカの頭が地面から少しだけ跳ね上がった。それを見たノブヒコが、「お、バウンド」と言って笑った。ミチオは顔をこわばらせて動けず、ただ突っ立っている。俺は、今度はお前の番だとスコップをミチオの目の前に突きつけた。ミチオは嫌な顔をして受け取ったが、殴るのを躊躇して、泣きそうな顔をしている。ノブヒコが舌打ちをすると、ミチオは俺と同じようにスコップを振り被り、けれども弱々しくヨシタカの頭を叩いた。今度は、「バウンドなし」とノブヒコが無表情で言った。

俺たち三人は少し緊張しながら、しばらくの間、ヨシタカの様子を黙って見ていた。うつぶせのまま、何度か体を痙攣させたヨシタカは、空気が漏れるような音を出して動かなくなった。その声を聞いて、俺たちは一斉に笑い出した。「ぐぅ、とか言うなって、バカ野郎」と言って、俺はミチオからスコップを取り上げ、ヨシタカの背中に突き立てた。ヨシタカの体はゴムでできた人形のようにぐにゃっと動いただけで、それ以外は何の反応もなかった。引きつったような笑いから、鼻で笑うように変わったミチオが、「最後まで詰まんねぇ奴だ」とヨシタカの体を蹴りつけた。しかし恐ろしさからか、少しだけ声が上ずっている。ノブヒコは俺からスコップを奪い取って、仰向けにしたヨシタカの頭を左右から交互にスコップで殴った。そして、そのたび左を向いたり右を向いたりするヨシタカを見て、気が触れたかのような高笑いをしている。

ノブヒコが何度もヨシタカの顔をスコップで殴るので、抜けてしまった歯がヨシタカの口から飛び出した。それを見て俺は無性におかしくて、涙を流しながら息ができなくなるほど笑った。ノブヒコも喘息患者のように息をヒューヒュー言わせながら笑っている。ミチオを見ると、地面に仰向けになって足をばたつかせながら笑っていた。しかしそれを見た瞬間、俺の笑いは殺されてしまった。ミチオのわざとらしさが、一瞬で俺の笑いを殺してしまったのだ。素に戻された俺が「埋めるか」と言うと、ノブヒコがヨシタカの右腕を取った。俺も左腕を肩に掛けた。どこにも力の入っていない人間はこんなにもだらっとしてしまうのかと思って、「さすがはヨシタカだ。すげぇ、だらしねぇ」と俺が言うと、ミチオとノブヒコが冷たく笑った。俺は、重くて扱いにくい肉の塊を抱えたためというただその訳からだけではなく、何となく押し潰されるような持て余すような、そういう感覚に襲われた。人を殺してしまった奴はみんな、この重苦しい感覚に捕らわれるのだろうか。そして、そのせいで死体をすぐにばれるような場所に放置してしまったりするのだろうか。けれどもいまの俺には、死んだヨシタカ自身が掘った墓穴が、すぐ目の前にある。穴の中に横たえられたヨシタカの体は、時間を測りながら、じゃんけんで負けた奴が3分ずつ土をかけるという方法で埋めることにした。俺がそう説明をして実際に始めると、ノブヒコが三回続けて負けた。

「なんでヨシタカのために、こんな目にあわなきゃなんねぇんだ」

ノブヒコは悪態を付いて、「死ね」と叫んではヨシタカの体に何度もスコップを付き立てながら、土をかけている。俺とミチオは、「だから、もう死んでるって」と言って笑った。俺にとってそれは軽い笑いでしかなかったが、ミチオはずいぶん気に入ったようで、何度も同じことを繰り返してはその度に笑うのだった。俺はだんだん簡単に笑おうとするミチオに腹が立ってきて、自分の番が回ってきて受け取ったスコップを、ミチオの頭を掠めるようにしてスイングしてみせた。ミチオは驚いて、訳が分からないというような顔をして黙っている。俺が「お前も死ぬか」と言うと、「バカ言うな」と少しだけ泣き出しそうな顔をして笑った。

「いまからミチオ君に自分の墓穴を掘って頂くような、そんな時間はゼンゼンございませんよ」

俺はにやけながら、土で埋められた穴の上を踏み固め始めた。穴がすっかり埋められた墓標のないヨシタカの墓は、周りとは土の色が違っていたが、随分と林の奥だったので誰かが見つけ出したりするとはまったく思えなかった。もし万一見つける奴がいるとすれば、それは例えば誰かに探せと言われたら、何も考えずに一日中探すような機械みたいな奴に違いない。俺がいつでも邪魔をされ足元を掬われるのは、そういう類の謎の生き物なのかもしれない。なぜだか俺には、そう思えた。

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第七回


家に帰って普段通りにベッドへ入り眠った。次の日も俺は、普通に学校へ行こうと思った。体調も気持も何も変わらない。家を出て、もし自分が警察に捕まったならテレビのワイドショーでは、「殺人を犯した後も何食わぬ顔で登校していた」などと言われたりするのだろうかと思いながら、いつもの道を歩く。いきなり言動が変われば疑われるのだから、たとえ平静でなくても、それを装うのは当たり前のことだ。けれども、罪を犯した人間が自分たちとはまったく違う「怪物」であるということにして安心したいから、そういうふざけたことを言ってしまうのだろう。けれども、「怪物」なのは、そういう愚かしさを抱えた人間たちの方なのだ。つまり、俺よりも先に捕らえられなければならない筈の存在だ。疼き出した怒りに、それはただ自分の想像に対するものにすぎないのだと自分で自分に言い聞かせながら、学校の側まで歩いていった。校門の前に、生活指導の中嶋が立っているのが見える。

中嶋は、青地に白い二本線の入ったジャージの上下を着て、白のスニーカーを履いていた。手には竹刀を持ち、これが正しいやり方だというように大きな声で挨拶をしながら、生徒の髪型や服装のチェックをしている。中島はいつも、ズボンが太いだの細いだのスカートが長いだの短いだの髪が赤いだの茶色いだのと、そういう下らないことを自分の役目として仕方なく注意するのではなしに、まるで世界中で認められている完全無欠な正義であるかのように、本気になって喚き散らしている。

それは、校則など下らないルールにすぎないのだけれども、ルールというのはときには従うことを要求されることもあるのだし、そうしておいた方が良いこともあるのだという風な思いを、少しでも心の内に抱えているようには決して見えず、だから、そんな余裕のようなものを、中島は少しも持ち合わせていないのだと俺に感じさせた。何かを主張するには、その主張しようとすること自体のバカらしさや白々しさもまた、一度は考えてみたことがなければならないだろう。そうでなければ、自分が下らない常識を信仰する信者であることを、ただ告白するだけの話になってしまうからだ。信仰の告白などは、同じことを信じる人間にしか興味のない問題だ。

つまり中嶋は、毎朝校門の前で信仰告白をしているのだ。その愚かしさのために、ほとんどの生徒からバカにされ、とにかく何かにつけて反抗されている。そして、だからこそ、いつでも肩を怒らせ、怒鳴り散らさなければならないようになってしまっている訳だ。

「ルールが守れないようでは、社会に出てもやっていけないぞ」

何度も生徒にそう言っていたが、自分こそがひどく狭い社会の中にいて、結局は教師という特殊な職業に就いているのでなければ暮らしていけないような歪な生き物だということは、少なくとも俺から見れば明らかなことだ。

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第八回


もしも生活指導などというものが半分はおこがましいことだと意識できていて、だから、自分の役目として仕方なしにやっているのだと考えている教師ならば、生徒の側にもそれが伝わり本気で反抗されたりはしないものだ。例えば、「髪を染めてはいけない」というルールが下らないものだということも、そしてもちろん、それに反抗するのもまた下らないということも、生徒の側では分かっているのだ。けれども教師の側がその下らなさを絶対に認めようとしないで、とにかく生徒がバカだからその大事さが分からないのだと決め付けるような態度を取るから、反発を招くというだけのことだ。

結局中島のような教師は、自分の都合の良いように世界を解釈しようとしているのだろう。生徒はいつでも、そういう独善に苛立つ。もっとも間違っていること、それはもしかすると自分が間違っているのではないかと疑ってみもしないことだ。そして、相手こそが愚かしいのだと決めてかかるということだ。生徒には、それが伝わる。けれども、そのことをはっきりと意識できず、当然、明確な説明をすることができないでいる。だから、余計に苛立つのだ。俺には、教師たちが陥っている下らなさの訳が分かってしまった。それを指摘して、そのまま説明できるようになってしまった。それはなぜか。俺は愚かな教師たちに乗せられてしまって、怒りを露わになど一度もしなかったからだ。そして、ただ黙って見ていたからだ。つまり自分の苛立ちの原因が像を結ぶまで、目を閉じ息を止めていたからだ。

そもそも教師のほとんどが、怒りを向けるべき対象ですらないのだ。そんなことには値しない、ひどく下らないものでしかないのだ。生徒たちが反発するのを見る度に、俺はこう告げてしまいたくなる。それは相手にすべき存在などではない、と。実際いつでもほとんどの怒りは、それを向けるべきではないものに対して湧き上がるものだ。相手にすべきでないその下らなさこそが、俺たちを苛立たせるものであるからだ。それは怒りが本来抱えている矛盾であり、罠なのだ。

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第九回


毎朝学校に行く度、俺は校門のところに立っている中嶋に自分から挨拶をしてきた。なぜなら挨拶をしないことで、中島のような頭のおかしい人間に絡まれるのが嫌だったからだ。俺が挨拶するのを聞くと、いつも中嶋は嬉しそうに笑ってそれに応える。世界が自分の思い通りであることを知って喜ぶその顔は、ひどく醜い。関わりを避けるためにするよそよそしい振る舞いを、中嶋は自分に対する敬意か親密さのようなものと受け取っているらしく、廊下などで会うとよく声をかけてきた。そんなとき俺は、いつもできるだけ接触している時間を短くしようと、そしてその愚かしさや荒々しさに飲み込まれないようにと、丁寧にしかし心を閉ざして応えるのだ。俺の対応がすべて、危険人物を避けるような類のものだと知ったら、中島はどう思うだろうか。そんな意味のない復讐のようなものが、俺にとって意味のない存在である中島に対して、いつでも微かに向けられている。

中嶋は体育教師だが、蹴上がりができない。できないけれども、授業でそれを教えようとしていた。以前、鉄棒の授業のときにそのことを知った俺は、自分のことのように恥ずかしく感じた。そして、もしかすると生徒の知らないところで練習をしているのかもしれないと考えて、確かめるために中嶋の手のひらを見てみたりもした。しかし、そこには血豆はおろか、硬くなった手の皮さえなかった。だから中嶋は、できないことを教えようとしていて、しかもそのことに何の疑問も感じずにいるのだと俺は思った。それ以来、俺は中嶋を一層軽蔑するようになった。できないことを教えようとする人間、そして、できないことを教えなければならないにも関わらず平気な顔をしている人間は異常だ。もちろん、できないことを教えることが平気らしいというのも、それは異常だというのも単に俺の判断にすぎないものだ。けれども、だから少なくとも俺にとっては中嶋は異常な人間である訳だ。

中嶋の側からすれば、もしかすると中年になって体力が落ちてきたからできなくなってしまったのかもしれないし、だからといって仕事を辞める訳にもいかず、もちろん、ただ蹴上がりができないなどというそんなことが辞める理由にもなるなどと考えることもないのだろうというようにも思える。そして、単に授業のときには、コツのようなものを口でだけ言って、後はできる生徒に模範演技をやらせれば良いだけの話だと、そう考えているのかもしれない。それは中嶋にとっては、まったく当然のことなのだろう。しかし、俺にとっては完全に異常なことだ。そこには、俺が持っている余計な潔癖さのようなものがあって、それはもしかすると少年に特有のものなのかものしれない。つまり自分で言うのもおかしいが、それは少年にとっての異常さ、というようなことなのかもしれない。とは言ってもそこには、それぞれの人間の形とでも言うべきようなものがあるのではないかと、俺には思えるのだ。

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第十回


人間の体は、柔らかい肉に包まれているから見た目はあまり変わらないが、何かに突き当たれば明らかになるその内側にあるものは、それぞれに大きく違っているのではないかと、そんな風に俺は思う。だから、世界と接触して様々な力を加えられたときにできる窪みによって、その人間が何者であるかが分かるのではないだろうか。中嶋が学校の中で俺に見せた窪みが、そして次第に全体が浮かび上がってきたその体の形が、許容できる範囲を超えて醜いものに俺の目には写って、だから、異常と思えたのだろう。

いまでは俺にとって中嶋は、少しでも関わりを持ったその瞬間から、強制的に無関心に近づくほどの嫌悪を感じてしまうような存在だ。しかし同時に、校則を絶対の正義のように主張して怒鳴り散らし、授業では自分ではできもしないことを教えようとしながら、それでも平気な顔をしてみせるようなその姿は、滑稽以外の何ものでもないとも思える。結局のところ生活指導の中嶋は俺にとって、関わらなくても良いなら非常に愉快で、しかし関わらなければならないとなるとひどく不愉快な類の生き物なのだ。

そんな中島の前を挨拶をして通りながら、その生き物が生徒の誰かが問題を起こしているということ、つまり例えば男子生徒が暴力事件を起こしたり、女子生徒が売春をしたりすることはもしかすると想像しているかもしれないが、俺たちがヨシタカを殺したなどとは想像だにしていないだろうと思って、少しだけ愉快な気持になった。それは、頭のおかしい人間に関わらなければならない俺が新たにした、もう一つのささやかな復讐だ。

習慣だとか態度だとかを良い状態にしようとするのが生活指導担当の、だから中嶋の役目だ。けれども自分が良いと思うものに対する疑いを持たないような、そんな教育の中に詰まっている傲慢さは、いつでも生徒たちを白けさせるものだ。そのことに限らず、ほとんどの教師が絶望的なほど魅力に欠けているのが実際のところだ。つまり、その生が充実しているというような気がまったくしない。だから誰も教師の話を聞こうとなどしない。

恐らく、そのことは教師自身も気付いているのだろう。だから彼らはいつでも内心では苛立ち、自分の教えていることは価値があるのだと叫ぼうとするのではないか。けれども、それでは「自分は正気だ」と叫ぶ狂人と変わらなくなってしまう。そんなものを生徒たちが嫌がらない訳がない。そんな人間のする話を、誰も聞く筈がない。ただひどく嫌な顔をされるか、笑われるかのどちらかに決まっている。そして実際俺はその両方を同時にしているのであって、そのために本当は、少しだけ心が危ういような気がしているのだ。

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第十一回


俺が前を通りすぎると、中島が追いかけてきた。

「お前のそのズボンは校則違反じゃないのか」

実際はその通りだけれども、俺はすぐに応えて言った。

「学校指定のものですよ」

中島は少し気まずそうな顔をしてから「そうか」とだけ言って、そのまま校門の方へ戻っていった。中島にはどのズボンが学校指定のもので、どれがそうでないかが分かっていない。だから生徒の服装を見たときに、自分が少しおかしいと思ったら鎌を掛けてみて、そこで相手が怯めば大声を出して叱るというようなことをやっている訳だ。俺は、中島というあの謎の生き物は結局何がしたいのだろうかと思いながら、靴を上履きに変えた。俺には、受け入れることのできない二種類の人間がいる。それは自分で何がしたいのかが分からない人間と、人から与えられたものを、そのまま自分の目標にしてしまう人間だ。

例えば、すべての目標は社会によってすでに作られていたもので、結局は借り物でしかないというような考えがあるだろう。けれども、それはひどくバカげた話だ。そういうふざけた考え方が示しているのは、ただその本人が目標を自分自身で決めたことがないという、単にそれだけのことなのだ。それはつまり、意志することができない奴隷が悔し紛れに、そして苦し紛れに言ってみせる戯れ事にすぎない。すでに多くの人間がまったく変わらない意志を持っていたにせよ、ひとたび自分が選択したなら、それはもう借り物などとは言えない筈のものだ。だから自分の意志が借り物であるような気がするのは、それが本当の意志ではないということだ。そして、そいつが本当の意志を持ったことがないというだけのことなのだ。

俺の意志とは何だったか。それは、すべての腐れた日常の破壊だ。しかし、そもそもすべての日常は腐れている。だからつまり俺が意志するのは、すべての日常の破壊だ。けれども実際、それには俺の意志など必要ない。なぜなら、日常は破壊されるのが必然であるからだ。なぜ、それは必然なのか。それは、地中に爆弾があるからだ。ではなぜ、地中に爆弾があるのか。それは飛行機山に落ちた戦闘機のパイロットが、図らずもそこへ埋めてしまったからだ。そして、そのパイロットが持っていたのと同じ思いは、つまり、その他にも爆弾というものは、この地面の下に無数に埋まっているからだ。

いや、むしろこう言った方が良いかもしれない。なぜ、地中に爆弾があるのか。そのことに理由はない。それは単なる事実なのだ、と。

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第十二回


地面の下で育ちつつある爆弾を想像しながら、俺は、それによって破壊されるだろう中島の不当に柔らかい掌と、世界が自分の思い通りであるときに浮かべるあの気味悪く醜い顔を思った。そして、そこに深く刻み込まれている印の意味を理解した。

人を「良い状態」にしてやろうという思い上がり、その救い難い愚かしさ。まさにそれが、ほとんどの教師の顔にはっきりと刻み付けられている。その印は、自分は「価値あるもの」を知っているということを主張するのだけれども、誰にもまったくそうとは感じられないのだ。実際、自分が「価値あるもの」を知ってなどいないということは、誰より教師たち自分自身が知っている。それをごまかすことは、決してできない。誰をごまかすことができても、自分をごまかすことはできない。誰から隠れることができても、自分から隠れることはできない。そして誰から逃れることができても、自分自身から逃れることはできない。何かを見ないようにして、現実を捻じ曲げて見るようになれば、人は頭がおかしくなるからだ。

自分の思う通りにしてやろう、なって欲しいと思い、その通りにならないからといって現実を捻じ曲げて見る人間は、世界に敗北している。思い通りにならなかったから負けたのではない。自分の都合の良いようにごまかしたから、負けたのだ。そして自分が敗北していることは、誰よりまず自分自身に知られている。けれども、そこには敗北を認められない自分がいるのだ。本当は、現実が思い通りでないことよりも、それを認められない自分の弱さの方が受け入れがたいことなのであって、その場所からこそ何とかして逃げようとしているのだ。だから、心が引き裂かれて気が違ってしまうのだ。

中島は、すでに頭がおかしいのだろう。それだから、自分ができないことを平気で人に教えられるのだ。教えようとできるのだ。そういう狂気が、そして、その狂気から生まれた世界への無感覚が地面を冷やしているから、そのために爆弾が爆発するのが遅れているのだろう。俺にはそうとしか思えない。

人を社会化することが大事なことで、それは間違いないのだとするという、教師の頭にある愚かな考えは完全に異常だ。その考え自体というよりも、自分の考えに対する疑いのなさが異常なのだ。元来が、学校などは勉強を教えればそれで良いだけのところだ。まだ生きているとき、ヨシタカが教師たちに何度も訴えたように、死を考えなければならないほど辛いのならば学校など行かなくても良いのだし、教師はヨシタカのような生徒を学校に来させようと説得したりなどせずに、学校に来ている生徒にただ勉強を教えていれば、それで良いのだ。

躾をしてもらおうとする親も、自分が躾をしなくてはならないと思っている教師も、完全に異常だ。上手く教えることのできない教師は無能だし、自分ではできない躾を教師に任せようとする親も無能だ。それはそもそも教師であってはならない人間だし、親であってはならない人間だ。そんな当たり前のことが分からず、あるいは分かってはいても認めることができずに何とかごまかそうとするその心が、この世界に溢れる災いの大きな源だ。だから、それは完膚なきまでに破壊されなければならないのだ。

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第十三回


自分の中で何度も繰り返された考えに再び捕らえられながら、睨むような目つきで廊下を渡って教室に入る。教室には、いつでもお互いを確認するためだけの無意味な会話が溢れているようで、すぐに吐き気がし始める。誰とも挨拶をせずに自分の席へ座り、前を見ると当然だがヨシタカの席は空いていた。俺は、机の上に花瓶を置いて、その中にはあのとき蜜を吸った花を生けると良いだろうと考えた。ヨシタカの死を知らない人間にとって、それは悪質な嫌がらせか冗談なのだけれども、俺にとってだけは真実のものである訳だ。

多くの人間に隠されてあって、けれども実際には存在し真実のものであるような現実と、それが持っている力。俺は、そのことについて考えた。つまり、この学校という場所には、力が溢れる多くの生き物たちが縛り付けられた生活がうずたかく積まれているのだから、むしろ爆弾はこの下にこそ無数に眠っているのではないか、と。そして、ヨシタカを殺してしまわずにもっと大きな穴を掘らせて、その穴の中に生き埋めにした方が良かったのではないかと、少しだけ後悔し始めた。なぜならヨシタカを生き埋めにすれば、ヨシタカの体自体が脈打つ爆弾として周りの爆弾にその力を送り続け、より大きな爆発を起こす状態を作り出すように思えたからだ。

ヨシタカを生き埋めにした俺は、毎日ヨシタカを殺さないための食料を穴の中に補給し続けるだろう。そしてヨシタカはあの軍人が爆発させることのできなかった爆弾と、学校の下に眠る爆弾とに力を送り続け、爆発の臨界点まで日常を追い詰めるだろう。俺が蜜を吸ったあの花たちは、地面が帯び始めた熱のせいで枯れてしまうだろう。そのとき俺はもう一度、花びらを契って口に含み、もう甘さがなくなってしまった蜜の、その苦さを十分に味わうのだ。

そんな「来るべきとき」が訪れたなら、俺はすでに瀕死の状態になっていて、爆弾に僅かな力しか送ることのできないヨシタカの頭に、あのとき鈍い音を立てたスコップを思い切り突き立てるだろう。そうすれば、頭蓋骨とスコップの先とが散らす火花によって爆弾は爆発し、日常のすべては破壊されてしまうに違いない。ヨシタカを生き埋めにしておけば、その瞬間は随分と早まったのではないのかと、そう俺には思えたのだ。

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第十四回


しばらくして、教室のドアをクラスの担任が開けた。担任は教室に入ってくるなり不愉快な表情になって、教室の中を見回している。おもむろに教室の後ろにある掃除道具を入れたロッカーのところへ行って、箒と塵取りを取り出してまた教壇へと戻ってきた。そして、その周りを掃きながら、「僕はこんな汚いところで授業なんか、絶対にできないからね」と目を剥いて言った。担任もまた、中島と同じように気味の悪い男だ。

太宰治が好きな国語教師で、一学期の初めから「走れメロス」の授業を十時間以上もかけてするような、ひどく身勝手な男だ。作者こそが、その物語に対して最も冷ややかな笑いを投げかけるのだということすらも分からないで、ただとにかくそこに描かれた友情を賛美して感動してしまうような、どうしようもなく単純で愚かな男だ。いまもまた、授業に入らずに余計なことを口走っている。就職の時には、新聞社に入るか教師になるか迷ったけれども、好きな本がたくさん読めるだろうと思って教師になったのだと、生徒の誰一人として知りたくもないことを勝手に告白している。けれども、実際は忙しすぎて本を読む暇がないと文句を垂れた。そして、お前たちのせいだとばかりに、生徒たちに、その爬虫類のような大きな目を剥いて見せている。

担任は、世界は不当だと思っている。つまり、不当なのは自分だということが分かっていない。あるいは、自分が自分の思い通りやっていけないのは、周りの人間が寄ってたかって邪魔をするからだと思い込んでいるのかもしれない。つまり、それが自分に能力がないためだということが分かっていない。結局この教師も中嶋と同じで、現実から目を逸らそうとして狂気に憑かれている。本当は自分のせいであるのに人のせいにするということは、世界を歪めて見ることだ。だから、その皺寄せが自分の方へ来て、心は矯められ、また世界を恨むようになる。そうすれば当然、何の正当性もない恨みによって周りの人間に復讐されてしまい、心はもっと捻じ曲がっていく。

何が不当だと言って、世界が自分の望む通りであるべきだという、意識的であれ無意識的であれ、そういう考えこそはこれ以上ないほどに不当なものだ。それは必ず敗北すべきもので、単なる甘え以外の何ものでもない。

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第十五回


担任や中嶋と同じ様に、多くの教師は世界に期待している。つまり、いつでも生徒に対して、自分の思い通りであるべきだと思うような不当な期待をしている。けれども、生徒のことを信じてはいない。俺は、学校という空間に閉じ込められるといつも思う。生徒たちに不足しているのは、信じられるということではないか、と。下らないことをしていても、いずれ価値あるものに関わり、また価値あるものを生み出さずにいないだろうと生徒を信じる心がないのなら、教育と言い教育者と言っても笑うべきものでしかない。

ほとんどの教師は、生徒を侮っている。だから、生徒に侮られるのだ。自分の価値に絶望する人間が、他の人間を侮蔑する。そして、そのために世界からの侮蔑を受けるのだ。生徒たちは、教師の中にある絶望をあまりにも容易く逃れ難く、瞬時に感じ取ってしまう。そして、そこにある醜さを見せ付けられてしまうから、教師を憎み、侮り、そのすべてに反抗するのだ。子供に向かって毎日愚痴を零すような救いようのない人間が、たとえ教室の中だけでも何らかの力を持つこと。その事実に、生徒たちは我慢がならない。けれども本当は、反応などしてはならないのだ。なぜなら異議を唱え反抗してしまえば、その教師の世界の中にある、何も分かっていない生徒の役目を負わされてしまうことになるからだ。

下らないものはいつでも、無視するしかない。俺たちはただ体を低くして力を蓄え、機を伺うしかないのだ。世界への苛立ちは、そんな状況の中にいることしかできない自分への苛立ちだ。そして何の企てもなしに自分に苛立ってしまうのは、決して得策とは言えない。大切なのは、世界に復讐することではない。自分自身に復讐することだ。そのために必要なのは教師を攻撃することではないし、自分に罰を与えることでもない。必要なのは、自分に勝利を与えてやることだ。それだけが、無力だった過去の自分に復讐する唯一の方法だ。

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第十六回


担任は教壇の周りの掃除を終えると、自作のプリントを配ってから、もう何時間やったかも分からない「走れメロス」の授業を、また始めた。しかし、すぐに中断すると、自分は複雑な家庭で育ったのだと、授業とは何の関わりもないことを話し出した。そして、黒板に自分の家の家系図まで書き始める。

俺がその、別にそれほど複雑でもないが、思い入れだけはたっぷりの図を見たのは、はじめてではなかった。担任はこれまで何度もその家系図を書いて、自分がいかに大変な目に会ってきたかを力説し、生徒たちに話して聞かせてきた。国によって教師になるための訓練を受けた三十過ぎの男が、そこに座ることを半ば強制されている生徒たちに対して、だ。要するにこの男は、「だから、自分は駄目でも仕方がないのだ」ということを言いたがっているようだ。つまり、自分は辛い目に会っているのだから、生徒に愚痴を零しても仕方がないし、自分のしたいことができなくても仕方がないのだ、と。それは、酷いことをされたのだから、相手を殺しても仕方がなかったのだと多くの人殺しがする弁解と同じようなものに、俺には思えた。結局は単なる開き直りなのであって、開き直りというのはもっとも安易な自己肯定だから、それはひどく醜いものだ。しかし当人にしてみれば、開き直ってなどいないと、だから自分は自分の過酷な運命と戦っているのだと、そう思っているのだろう。

そうは言っても現実の担任の姿は俺が見ているそのままのもので、自分の弱さに居直り、まだ子供とも言えるような生徒たちに毎日自分の愚痴を聞くことを強要する、単なる碌でなしでしかない。結局担任は、愚かな道化だ。自分が道化であることに気付いていない道化だ。それは、道化であることを見破られていないと思い込んでいる道化だった彼の好きなあの男と、道化であるという点においては同じなのだからやはり名誉なことなのだろう。

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第十七回


担任の授業が終わって別の教師が現れても、教師と生徒の間にあるずれのようなものは、そこに存在し続けた。すべての教師は、生徒の中にある自分では理解できない部分を恐れている。それはつまり、自分自身の想像を恐れているということだ。けれども、生徒の心の中にあって、しかし自分では理解できないものに恐れを抱くのは、まず自分には生徒の心が理解できるという間違った前提があるから、より恐ろしいものになっているのに違いない。

恐らく教師たちは、自分と生徒たちを動かしている根本の考え方のようなものが同じだと思いたくて、だから事実がどうであるかを見ようとせずに、生徒は理解可能な存在だと思っているのだろう。教師である自分も、そして生徒も同じ人間なのだから理解し合える筈だと思い込もうとするのは、そうでなければ自分はどうしたらよいか分からなくなってしまうからなのだろう。教師たちは、自分と生徒が同じような考えに従っていなければ、上手く教えることができないという不安を抱えながら、しかし自分に教えるべき何かがあるかどうかについては、何の不安も感じていない。

自分が勉強以外に教えるべき何を持っているというのか。それを持っているという得体の知れない自信は、どこから来たのか。なぜ、それを知り習得することが価値だと思うのか。そして、その正しさに不安を感じないのはどうしてなのか。自分は人に教えるべき何かを持っているのだという思い込み。それがいつでも、生徒を苛立たせている。それは、知識や経験が豊富だとかいうような話ではない。自分の存在に対する不安があるかどうかが問題なのだ。本当は自信などなくて、ただ生徒の前だから虚勢を張っているだけなのだと言う教師も、もしかするといるのだろうか。嘘をつけ。そんな捩れをまったく感じさせない単純な自信と不安だけが、いつでも隠し様もなく生徒の目の前に醜くぶら下がっているというのに。

例えば、そんな風にして教師との間にあるような日常との齟齬は、いつでも俺を白けさせる。それは、いつも襟首を掴んで現実の関係から、俺を無理に引き離す。それによって、俺には俺を取り巻く物事の関係が見えてくる。そして、次第にその意味が飲み込めるようになる。その場その場で直接現実に手を触れて、叫んだり走り回ったりしなくても良いようになる。けれども同時に、現実の中にある自分自身もまた、少しだけ死んでしまう。なぜなら、その都度起きる感情に捕らわれずにすむということは、それに捕らわれることができなくなるということでもあるからだ。白けに捕らえられた心は、生身の感情すべてから強制的に引き剥がされてしまう。

白けという病にやられると俺は、自分以外のものとの摩擦をなくす。そこでは、自分のどんな欲望も偽物だというような疑いが生まれてしまうのだ。

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第十八回


ヨシタカが死んで一週間が経った。俺は毎日学校に通い、ヨシタカのことを何度も思い出しながら過ごしている。けれどもそれはヨシタカがいなくて寂しいからでもないし、良心の呵責によるものでもない。ヨシタカがもうこの世にはいないという事実から生まれる、自分と自分以外のこととの関係の変化を頭の中に組み入れるために、ただ必要なことなのだ。それはヨシタカが死んですぐに埋められて葬式がなかったからで、弔いなどという感傷を取り除いて残る葬式の実質的な役割が欠けているからだろう。だから俺はまだ行われていないヨシタカの葬式を、心の中でやっているのだろう。

小学校の頃から俺たち四人はいつも一緒に遊んでいたが、中学に入るとヨシタカがいじめられるようになった。ヨシタカは何をしても少しだけ反応が遅く、どこか少しずれていた。下らないことを面白がって、話をしていても他の三人と笑うところが違った。そんな違和を感じ始めて俺は、ミチオとノブヒコと一緒になってヨシタカをいじめるようになった。無視したり、四人でいてもヨシタカにだけ聞えないように小さい声で互いの耳元で話したりもした。それは女々しいとも言えるけれども、やられた相手には確かに精神的な負担を与えるものでもあった。使いっ走りをさせたり、理由もなく手のひらで跡が付いてしまうほど強く背中を叩いたりした。プロレスの技をかけたり、好きでもない女に好きだと告白させたりもした。

俺たちのやり方を見て、クラスの他の奴らがヨシタカをいじめようとしたこともあった。けれども、俺たちはそれをやめさせた。そういう奴は俺たちからは、調子に乗ってしまったバカだと見なされた。誰より調子に乗っているのは、ヨシタカをいじめている俺たち三人だということは明らかだったし、それを自分たちでも分かっていたにもかかわらずだ。だから俺たちは、自分たちが調子に乗ってヨシタカをいじめているというその醜さを、他の人間になすりつけようとしていたのかも知れない。俺はいつでも、自分の中にそういう下らない合理化があることが分かっていた。しかし、いじめをやめてヨシタカに謝ろうとは少しも思わなかった。それは例えば自分が飯を食う姿を醜いと思っても、誰も食べるのをやめたりはしないのと似たような話なのかもしれない。

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第十九回


俺たちがヨシタカをいじめるときのそのいじめ方というのは、例えば何かをやらせて結果がどうなろうと、それによってヨシタカを非難するというのが多かった。それは俺たちがヨシタカを殺した夜にやっていたのと同じで、謝れと言っておきながらヨシタカが謝ると、謝るようなことはしていないのになぜ謝るのかと問いつめるというようなことだ。つまり、どんな反応をしても結局は責められてしまう訳だ。それから、笑えとか泣けとか怒れだとか言って、命令したとおりの表情を強要するというものも随分やった。俺たちはヨシタカがする、笑っているけれども泣きそうな顔だとか悲しげに怒る顔だとかを見て、いつも息ができなくなるほど笑った。俺たちの命令にどう対応しようと苦しめられ、自分の感情とは別の表情を強いられ続けると、ヨシタカはときどきおかしな叫び声を上げるようになった。

俺には、ヨシタカが陥っている状況というのが、濡れた厚紙でできた箱の中に閉じ込められているような感じだと思えた。その箱は、乾いているうちは軽くて息もできるのだけれども、涙を流したり激しく息をしたりすることで濡れてしまうと紙が重くなって蓋が密閉された状態になり、息が苦しくなってしまうのだ。俺には、ヨシタカがそんな箱の中で叫んでいるように思えた。けれども、その箱は結局ただの厚紙にすぎない。手錠でもなければ鉄格子でもない。だから出ようと思えば出られるのだ。

出られるのに出られないと思い込んでいて、だからヨシタカはその箱から出ようとしない。そして本当は自分で決めたことなのに、それに苛立って叫び声を上げるのだ。それなら、天気が悪いといって不機嫌になる人間の方がまだしもまともだ。なぜなら、雨が降るのは自分のせいではないからだ。つまり俺はヨシタカの上げるその叫びを、ひどく不当なものだと感じていた。

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第二十回


ヨシタカの叫びはいじめている俺たちに対する苛立ちでもあったけれども、辛い状態から逃れられない自分への苛立ちでもあった。俺には、そのことが分かっていた。だから俺にとってその声はひどく耳障りで、ヨシタカが叫ぶときにはいつもより強く殴ったりもした。俺はきっとヨシタカのその姿に、何かに痛めつけられながらしかしそこから逃げ出そうとすらしないで、だからこそ逃げられずにいるような救いようがないほどまで弱い生き物を見たのだろう。

いつどこでそう感じたのかは分からないが、それをむかし自分が感じたことのある感情のように感じて嫌悪したのだろう。要するに、俺にはヨシタカの感情がすべて理解できているように思えて、だからこそ憎み、その分だけ執拗にいじめたのだ。もし例えばヨシタカが、殴られたら涙を流して喜ぶようなマゾだったら気味が悪いと思うことはあっても、ひどく苛立ったりなどしないだろう。結局ヨシタカは俺であって、だからこそムカついたのだけれども、俺とヨシタカの違いはあまりにもはっきりしすぎていたので、俺はそれを分からせるためにヨシタカを痛めつけ続けたのかも知れない。

ミチオは、ヨシタカがおかしな叫び声を上げる度に、ヒステリーを起こすのは欲求不満の女だけだと言って笑った。俺たちは、欲求不満を解消させるためだと言って、ヨシタカに、同じクラスにいるデブでなよなよした、まつげの長い色白の男に好きだと告白をさせたことがあった。相手の男は、興奮するといつもそうなってしまうのだが、ヨシタカに告白されると鼻血を出した。それを見ていたクラスの奴らは笑って、やっぱりお前は男が好きなんだと囃し立てたりしていたが、騒ぎが大きくなればなるほど、俺は気持が白けていくのを感じた。

面白いことは、共有されるほどに詰まらなくなってしまう。面白さを感じる人間が一人増えていくごとに、強制的に下らないものに変えられてしまう。それは、その面白さというのが自分だけは分かっているが他の奴には分かっていないと感じるような、そういう下らない自意識の話ではない。面白いものというのは、共有されるごとに多くの人間が理解できるものに変えられてしまうのだ。面白さの水準が、瞬時に強制的に引き下ろされてしまうのだ。それはどんな感情でもそうなるというのものではない。例えばある本が多くの人間に読まれるというようなことでは、その引き下げは起こらない。そうではなくて、笑いということについて実際にその場に生身の人間がいる場合だけ、成り立つ話だ。

数人というレベルを超えてしまって受け取られた面白さは、もうすでにその名に値しないものへと否応なしに変えられてしまう。そんな風に共有されることで駄目にされてしまった面白さを見ると、俺はいつも思うのだ。俺が受けていて、受け切れずにいたものは、それではないのだ、と。

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第二十一回


ときおり、あの晩にヨシタカの体が痙攣していたのを思い出して、そんなときにはもう一つのもっと古い記憶が呼び起こされた。それは、まだ小学校にも行っていない頃のことだ。俺は近所の友達と一緒に、近くの川へ行った。そこで柄のついた小さな網を使って、小魚を掬っていた。そして取れた魚を鷲づかみにしては、自分たちがその上に乗っているコンクリートでできた平らな堤防に思い切り叩きつけて遊んだ。体中に強い衝撃を受けた魚は体を激しく痙攣させて、コンクリートの上をまっすぐに跳ねていった。そして物凄い速さで、そのまま川へと飛び込んだ。

俺たちはそれを繰り返しやるたびに、おかしくて腹を抱えて笑った。わざと残酷なことをしてやろうと思って、そんなことをやっていた訳ではない。日常のストレスや閉塞した気分を晴らしていた訳でもなく、そこに性的な興奮を感じているようなこともなかった。それはただ単純に楽しいことだった。その喜びは、その日の晴れ渡った空にとてもよく似合っていた。

俺たちの意識しているもののほとんど全体が、そんなプラスの方向を向いた感情に包まれていた。ただそこに乾いたマイナスの感情がほんの少しだけ潜んでいて、それは不条理と呼ばれるあの感覚だった。つまり、ただ川を泳いでいた魚がなぜコンクリートに叩き付けられなければならないのかということであって、それは自分がいつのまにか生まれてしまっていて否応なしに生きていたことに似ていた。だから、俺たちは笑うしかなかった。ただ、まっすぐに飛んだ魚と同じように、頭を突き抜けるようなまっすぐな笑いを、意味もなく笑うしかなかった。

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第二十二回


俺はまた、ヨシタカが壊れて取れたメガネの柄を理科の実験で使ったハンダで付けようとしていたときのことを思い出した。そのメガネは俺たちが壊したのではなくて、たぶん体育の授業か何かで壊れてしまったものの筈だ。ヨシタカはメガネが壊れたのが悲しくて、涙を浮かべながら柄をハンダ付けしていたが、「ハンダの煙が目に入っただけだ」と強がっていた。俺とミチオとノブヒコは、そんなヨシタカを笑った。けれども、それはいつものように嘲るような笑いではなくて、微笑ましい光景に頬を緩めてしまったような感じだった。そのときだけは、ヨシタカと俺は同じ側の人間のように思えた。けれども次に瞬間には、俺にそう思わせたヨシタカがひどく腹立たしかった。

俺とヨシタカに違いはない。だから、俺はヨシタカをいじめなくてはならなかった。そして俺にはヨシタカがそれを知っているような気がして、だからこそ俺はヨシタカをいじめなくてはならなかったのだ。もしかすると、いじめられているヨシタカの立場が、次の瞬間には俺のものであるかもしれないということに、俺は怯えていたのかも知れない。しかし実際は、俺とヨシタカの違いはあまりにもはっきりしていた。だから、俺がいじめられる側に回ることなどありえなかった。けれども俺は、それを何か積極的な方法で示すことができなかった。

例えば、ヨシタカに欠けている面白さみたいなものを俺が持っているとして、それがどんなものかをはっきりした形で示すことなど、できる筈もない。けれどもそれはヨシタカを除いた俺たち三人の中には確かにあって、だからそれぞれがそれぞれに対して、その違いをはっきりと分からせるために、ヨシタカはいじめられなければならなかったのだ。

とは言っても、そんなことはすべて後から付けられた理屈にすぎない。俺たちはただ、ヨシタカの存在そのものにムカついたという、それだけの話だ。理解しようとして問題を強く意識すれば、それが間違いを取り除いてくれることもある。けれども、理解しようとすること自体が間違いだということもある。特に理解することで安心を得たいと思っているとき、だから単純な物語の中に眠り込もうと望んでいるときにはそうだ。それは、俺たちを安易に理解しようとする大人たちの愚かしさをみれば、すぐに分かることだ。ヨシタカがなぜ死ななければならなかったか。そんなことに理由はないのだ。

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第二十三回


俺は、いじめをしているほとんどすべての奴らのように、ストレス解消のためにやった訳ではない。それはひどく醜いことだ。「ムカつく」と言って弱い人間に暴力を振るうのは、自分を制御できない駄目な人間のすることだ。それでは、日常のストレスにやられてしまって酒を飲んではくだを巻き、自分より弱い立場の人間に説教する屑のような大人と変わらなくなってしまう。

俺は、強い人間ならいじめを見ればやめさせる筈だなどと言いたいのではない。強い人間は、そんな下らないものにはじめから関わろうとはしないだろう。自分の中に鬱積した苦しみを吐き出すために自分以外の人間を攻撃する生き物のことなど、はじめからまったく問題ではない。つまりそれは、あの爆弾に破壊されるべき日常の側のものにすぎない。それは、破壊されるべきかどうかという問題にすらならない。爆発のそのときまでただ放置されて、しかもひとたび爆発が起こってしまえば、当然に破壊されるものなのだ。

価値のないものがどれだけ価値がないかを云々するのは、価値のない人間だけだ。下らないものがいかに下らないかを延々と考え続けるのは、下らない人間のすることだ。俺はそういうものになど、もう何も言おうとは思わない。少しの関心も持たない。一瞥さえ、くれない。俺のヨシタカに対する攻撃は、あの爆弾と関係している。そして、とりわけヨシタカの顔に関係している。それが多分、説明のすべてだ。そもそも、人を殺すのに理由など必要だろうか。誰もが理由もなく生まれて、死んでいくというのに。

だからどんなものについてであっても、理由を求めるのはいつでも、自分が生きていること全体を包み込んでいる理由のなさに怯える人間だ。人は圧倒的な現実の無根拠さを恐れて、収まりの良い物語を探し始める。自分でそれを作り出せないときには、経典だとか小説、それから学問によって、補完しようとする。けれども本当はすべて、何のためにあるのでもない。ただあるだけなのだ。理由などないのだ。もし理由を求めるのなら、美しさも強さも醜さも弱さも、非常に小さい。あまりに小さいものになってしまう。

すべての存在は何の理由もなく、ただ立っていなければならない。どんな理由もなく、立ち続けるもの。それが生だ。理由などに従属することなく生きる、生そのものなのだ。生はつねに、それ自体が爆発であり、だから爆発と共にあって、それによって同時に失われるべきものなのだ。

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第二十四回


ヨシタカが何日も家に帰らなかったので、両親が捜索願を警察に出したらしい。いつもヨシタカと一緒に行動していた俺たちは、真っ先に疑われるだろう。嫌な予感がしたので学校をサボって家でゲームをしていると、ミチオが警察に引っ張られたらしいとノブヒコからメールがきた。ノブヒコも家から出てないのらしい。

部屋の外が騒がしくなって、しばらくすると父親と母親が入ってきた。その後にスーツを着た二人の男が立っている。刑事なのだろう。体格が良く、いかにも単純な正義が好きそうな顔をした若い男と、背の低い、くたびれた感じの渋めのオッサンだ。父親は「お前、この野郎」と低い声で言い、怒りで体を震わせている。母親は涙を流しながら、「中学校に入ったときには癖毛のせいでパーマをかけているって教師に注意されないか気にするくらいまじめだったのに」だとか、ずいぶん昔の話を独り言のように呟いている。何にせよ親たちが、俺のために怒ったり悲しんだりしているのではないことは、すぐに伝わってきた。もしかすると自分にも落ち度があるのではないかという意識がない人間が困難に直面すると、自分は不当な目に会っているという感じるものだ。そして、それ自体こそが不当なそんな感情のせいで、自分の思っていることがすぐ表情に出てばれてしまうのだ。

若い方の男が言った。

「工藤がもう全部しゃべったぞ。死体も、もう見つかっている。」

俺は、男が嘘をついて揺さぶりをかけているのかもしれないと一瞬思ったが、ノブヒコでなくミチオがしゃべったというその言葉で、それが本当のことだと納得させられてしまった。ミチオならすぐに話してしまうだろう。俺は、ひとまずいまは捕まえられるだろうが、また自由の身になったら、そのときにはミチオを殺さなければならないことになったのだろうかと、すぐに思った。ひどく面倒そうで憂鬱な気分だ。

男に警察までくるように言われたが、俺は前の日の朝から風呂に入っていなかったので、外に出るのにシャワーを浴びたいと応えた。男は、怒りを抑えるように「いいから来い」と静かに言った。気が動転した俺がとにかくここから逃げ出そうと考えて訳の分からないことを言っているのだと、男はそう思っているのらしい。俺は、この男も自分の間違いを人に押し付けて、自分以外の人間だけが間違っているのだと考えたがっているのだと感じた。正義感とは、そういうものだ。けれども、そういう正義自体のおかしさもまた感覚的に知っているので、怯えて目を逸すために人を攻撃してしまうのだろう。つまりは、そういう人間なのだろう。結局は、父親や母親と同じ種類の人間だ。

俺の体がどんなに汚れていても、こんな奴らよりはけっして汚れていない。そして、これから自分はそういう人間ばかりがいる場所へ行くのだろうから、シャワーを浴びる必要などまったくない。

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第二十五回


俺を捕らえにきたスーツ姿の正義の男は、腰のあたりにつけた革のケースから不必要な素早さで、格好をつけたようなおかしな仕草をしながら手錠を取り出すと、俺の両手にそれを掛けた。俺は、こういう類の男の目に映る世界には必ず自分自身が含まれているので、逃れがたい狭さがあるのだと考えた。つねに自分がフレームの中に入っている写真を取ろうとすれば、画面は狭くなってしまい、できあがった写真は同じようなものばかりになるだろう。だから、そこには同じような情報しか含まれていないだろう。結局それを見ている人間は、つまり自分は、限られた情報しか掴めないだろう。

そうやって自己愛は、いつでも自分が見ている世界を世界そのものと思い込もうとする。自分に世界が捉えられるほどの能力があるかどうかなど、一度も問題にすることなしに、だ。それは結局、独善でしかない。独善を見せつけられた人間は、それを恥ずかしく思う。それが自分自身の姿でもあるからだ。とは言え、行為というものはすべて、独善の色を帯びている。なぜなら自分自身を見ているその眼差しがゼロになってしまうことは、ほとんどないからだ。そのことを意識して、独善に警戒しながら、それを恥じるような思いを失わない者だけが、独善が脳を腐らせてしまう場所から辛うじて逃れ出ることができるのだ。

両手に掛けられた手錠は想像以上に重いもので、ここにいる奴らが掴んでいる真実をすべて掻き集めても、手錠の重さには勝てないだろうと、俺にはそう思えた。

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第二十六回


警察までは、車で連れて行かれるのらしい。玄関の前で俺を見送る両親の姿が、いかにも作りごとのようなで嫌らしい。俺には、奴らが演技をしているのがはっきりと分かる。親というのはこういうものだということをどこからか聞いてきて、それに合うように自分たちの行動を作っているのだ。そういう異常な人間は、親だけではなく学校にもたくさんいる。友達というものが素晴らしいものだと、どこかから知らされて、それを何とか拵えようとして、愛想笑いをしたり驚いてもいないのに大きな声で驚いた振りをしたりする。そして楽しい気分になどなっていないのに、自分は楽しんでいるのだということを周りに知らせるために、大声で笑ったりもする。

そんなバカげた演技が通用するのは、ただ同類である病気の人間たちの間でだけだ。そういう類の人間は、もしも自分たちが素晴らしい親でも価値ある友人でもないとすると、大変なことになってしまうと信じ込んでいるかのようだ。だから必死になって演技をして、けれども、間違いなくいつでも無理をしているから、顔が醜く歪んでいる。それは、醜いと同時に滑稽でさえある。俺にとってそれは、犬が自分の尻尾を噛んでその痛みに怒って尻尾を追い掛け回しながら、その場でぐるぐる回っているのと同じような滑稽さだ。

別に、俺以外のすべての人間が俺を騙すために演技をしていて、だから世界の本当の姿はこういうものではないだとかいうような、そういうふざけた空想のことを言っているのではない。それに、すべての関係は幻想に過ぎないというようなことを言いたいのでもない。そうではなくて、価値あるものを巡ってのありふれた想像のように、自分の中にある物語をそのまま実現させるためなら、現実を歪めて見ることさえできてしまう、そういう生き物の不気味さのことを言っているのだ。

俺には、奴らが何をしたいのかが分からない。どこかに素晴らしいものがあるのだとしても、それを表面上だけ真似すれば自分も素晴らしくなれるというようなバカげた考えが、一体どこから生まれてきたのかも、まったく分からない。

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第二十七回


ヨシタカの顔には怯えがあったが、怯えの演技はなかった。けれども、そのせいで俺に殺されてしまった。逆に言うなら俺は、すばらしい日常の演技をしてみせるような人間たちを、殺したりはできないだろう。それはただ得体の知れない生き物で、だから、殺すべきかどうかも決められないような謎の存在であるからだ。ヨシタカは違った。例えば、俺たちはヨシタカを無視した。しかし、無視するということは無視できていないということだ。逆に、存在を認めてすらいないものを無視することはできない。誰も、道に転がる小さな石を意識的に無視したりなどはしない。俺は、演技をして日常を腐らせるような人間を、まともな人間として捉えられない。それを一つの存在として、意識の対象として認めることができない。だから当然、無視することができない。つまり重要だから無視できないのではなく、そのまったく逆だ。

警察の車の中で俺は、もう一度逮捕状を見せられた。ワープロで打たれたような文章に、印鑑が押されている。様式さえ知っていれば、まったく同じものを勝手に作ってしまえるだろう。つまり、ただの形式だ。書かれている内容など見たくもない。なぜなら、そこには大事なことは、何も書かれていないからだ。俺の隣に座っている刑事のような奴らは、自分では分からないものを認めたくないし、決して認めることのできない人間だ。けれども、彼らの日常の中にもそれは必ずあって、だからこそ怯えて認めたがらないのだろう。そういうことは、逮捕状などには間違いなく書かれていない。なぜなら、それは言葉にしてしまえばあまりにもはっきりとその姿を現してしまい、日常に裂け目が生まれて解決がつかなくなるからだ。だからそれはつねに隠されてあって、公的な文書の中などには決して姿を見せない。それが分かっていたから、俺は逮捕状をほとんど見なかった。そこには、どうでも良いようなことしか書かれていない。警察が作るような文は、命の枯れた抜け殻でしかない。ただ刑事が逮捕状を見せるときに窺わせた自信に満ちた表情の、その醜さだけは真実だ。

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第二十八回


警察へ着くと尿をとられ、指紋と写真をとられた。そして、裸にされて体を調べられた。そんな風に俺についての意味のないデータが集められた後で、テレビドラマで見たことがあるような、スタンドが乗せられた机が真中に置いてある部屋へ入れられて、取調べが始まった。俺の前に座ったのは、俺をここまで連れてきた奴らとは別の男だ。背が低く、斜視で頬骨が尖っている。そして、少し薄くなった髪は臭そうな油で撫で付けられている。

俺は男を見た瞬間、ひどく不潔なものを感じた。けれどもそれは、見た目そのものからの印象ではない。男の体の中に深く沈殿して淀んだままの諦めが臭いのようなものを発していて、向かい合って座った俺の鼻先まで上ってくる気がしたのだ。俺にはそれが、異性に対する諦めのせいによるものではないかと思えた。同時に社会的に認められることへの諦めもあるだろう。もちろん俺の勝手な印象に過ぎないが、そういう諦めによって拭うことのできない不潔さが男の体に染み付いている気がした。けれども男の場合とは逆に、諦めていない人間の不潔さというものもあるだろう。つまり、欲に含まれる粘着性が感じさせる不潔さのことだ。諦めてしまったことの不潔さと、諦められないことの不潔さ。それらはいずれにしても人間の不潔さだ。そういう不潔さから逃れるために、あの白けという感情はあるのではないだろうか。

俺は、川底の淀みの中で生きるようなその憂鬱な生き物のことを、心の中で「虫」と呼ぼうと決めた。俺は、虫にすべてをありのままに説明してやっていく。話を聞くうちに虫は、怒りを抑えているような表情に変わった。虫の中にある小さな正義感の、そのあまりの小ささは哀れでさえある。

俺の説明は弁解が排除され、ただ事実だけを忠実に述べたものだ。それは恐らく虫が一生の間に聞くどんな話よりも興味深いものに間違いない。どうして俺がこんなに面白い話を虫なんかに、まさに虫のような生き物にすぎないこの虫に、ただでしてやらなければならないのだろうか。俺が虫に話して聞かせるすべては、俺のような体験をしたものが話してやらなければ、虫などには恐らく想像すらできないだろう。俺たちがヨシタカの死体をスコップで殴っては笑い転げたことを話すと、虫はまったく完全に頭がおかしい人間だというように俺を見て、嫌悪感を露わにしている。俺から事件の話を聞き出すことではなく、下らなくありきたりな反応を俺にしてみせることが、虫に与えられた仕事であるかのように感じてしまう。

話し終わっても俺の話を理解できなかったような顔を、虫はしている。本当は、安易な正義という眠りから目覚めて俺に感謝するようでなければならないのに。それどころか恩を仇で返して、未解決の恐喝や暴行事件を俺のせいにしようとするようなことをしゃべりはじめた。相変わらず頭は虫の背中のように光っている。俺が「そんなことは知らない」と応えると、虫は「何だ、その口の利き方は」と叫んで、目の前の机を両手で思い切り叩いた。

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第二十九回


俺は、それが何によって引き起こされたものだとしても、大きな音を憎んでいる。そして表現された強烈な感情だとか、激しい主張だとかを憎んでいる。そこではいつも、あの白けという最後の感情が生まれてしまうからだ。

白けも一つの感情には違いないが、他の感情とは決定的に違うところがある。それは、すべての感情が白けに転化しうるということだ。例えば、喜びが怒りに直接変わってしまうことはない。直前に感じていた喜びによって、怒りが増幅されることはあるにしてもだ。けれども、白けという感情は違う。白けは、どんな感情とも直に結び付くことができる。どんな感情でも、そこから自分自身が引き離されることがありえるからだ。人は喜怒哀楽の感情の中で、それに捉えられた自分を不意に見出して白けという病に感染する。そこでは先にあった感情が強い分だけ、白けもまた強いものになってしまう。つまり感情の高まりは、白けという転落の淵そのものなのだ。

そして白けは、恐れの裏側だ。俺はそれを知っている。だから俺は、自分が世界に恐れているのを知っている。それは例えば、いま俺の目の前にいる虫そのものや、虫がしてしまうかもしれない実際の行動への恐れではない。そうではなくて、虫が持っているかもしれない、虫自身にも制御のできない感情だとか、そこから生まれた破壊的な振る舞いに対する恐れだ。単純に言えば、それは俺の想像だ。単なる俺の想像に過ぎないものだ。大きな音を出したり怒鳴り声を上げたりすることに、虫の持つ制御できない感情の兆しを見て、俺は恐れを抱く。そして、白けにやられてしまう。

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第三十回


けれどもいま俺は、虫に対する恐れを隠して表面上だけは平静を装っている。無表情でいることができている。それは、白けを利用してできたことだ。恐れているからこそ白けたのだが、白けによってその恐れを表現せずにすんだ訳だ。虫は、俺が睨み付けも怯えもせず無関心な表情をしていたからか、自分が予期していなかった現実の前で少しとまどったような表情を見せた。俺はその顔を見て、虫の弱々しい羽音を聞くような気がした。

虫が叩いた机の音のせいで、耳鳴りがしている。心臓が脈打つたびに倍くらいの大きさになるのが、なぜか心地よい。まるで害虫が近づいたことを知らせるアラームのようだ。それによって俺は、いかにも自分は目覚めているのだと思えた。虫は、何の証拠もなしに「とにかくお前がやったんだ」というようなことを何度も喚いている。もし俺が自棄になって虫の言い分を少しでも認めたのなら、虫は納得して満足してしまうだろう。そんなことは絶対にやるべきではないし、許されることでもない。それは嘘であるから認められないのではなくて、虫を満足させるものだから認めてはならないものなのだ。虫に納得する資格などない。虫は、決められたことをやって、ただそれだけで死んでいくしかない。つまり、虫は満足することができない。虫はただ欲望を諦め、与えられた役割を果たすことしかできない。それはなぜなら、この男が虫であるからだ。

俺は虫に対して反抗するというのではなく、また、濡れ衣に対して怒りを抱いた訳でもなく、ただ虫を納得させないというその当然のことを守るために、何度怒鳴られ喚かれても、虫の言っている虫がそうであって欲しいと願っている虫なりの物語を一つも認めはしなかった。それはヨシタカを殺さなければならなかったことと同じように、俺にとってあまりに当然にそうあるべきことだった。

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第三十一回


留置場では、少年専用の部屋に入れられた。細長い部屋にベッドが三つ置いてあって、一番奥にトイレがある。少年という種類に属する生き物は保護したいのらしく、部屋から出入りするときは、他の一般の被疑者と顔を合わせないようにされている。俺が入るまでは空いていたようで、部屋では一人だ。食事は決して旨くはないが、出てきたものはすべて食べている。朝は食パンにマーガリンとジャム。昼は、おかずが二つくらいしか入っていないような弁当で、夜はそれより少しだけましな弁当。飲めるのは水だけだ。

毎日、取調べが終わった後の時間を俺は、爆弾のことやこれから俺が持つべき企てについて考えながら過ごしている。けれども、そういう大事な時間なのに、俺が来る前からそこにいるらしい隣の部屋の男がしきりに話し掛けてくる。俺は何度声を掛けられても何も応えない。少年を保護するという名目があるからか、看守が見回りに来るたびに「静かにしろ」と注意するのだが、男は看守が離れたときを見計らって声を殺しながら話し掛けてきた。そして何も応えようとしない俺に、勝手に自分の話をし始めた。

「お前、活動家って知ってるか。社会を変革するために戦っている人間たちのことだ。俺はその活動家って奴だ。でも、捕まるようなことは何もやってない。警察は俺が活動家だっていう、ただそれだけで俺を逮捕しやがった。これがどういうことか分かるか。つまり、弾圧だよ。そのうえ、このあいだまでは認めていた接見を認めなくしやがった。だから、俺は昨日から何も食べていない。これは抗議だ。分かるか。」

俺は思った。どんなに理不尽なことをされたのだとしても、断食によって抗議をするなどというのは、何の意味もないことだ。自分に酔っているだけの話にすぎない。自分にしか通用しない、自分の内側にしかない自分で決めた戒律との戦いは、人に知られてはならない。だから、絶対に表現してはならないものだ。表現してしまうと、単なる独善になってしまうからだ。どんなものでも、それを独善だと決めるのは自分以外の人間だ。つまり誰にも知られず隠し通されることで、その戦いは独善を免れることができる。

そもそも抗議というのが、初めから弱々しいものでしかない。なぜなら、それは相手に自分の訴えを聞いてもらおうとすることだからだ。人に何かをしてもらおうとすることは、それ自体が弱さの証拠だ。確かに俺たちは牢屋の中にいるのだから、抗議くらいしかできることはないのかもしれない。しかしだからこそ、抗議などしてはいけないのではないか。俺たちは、思わず抗議をしてしまうように仕向けられている。お前たちにできるのは抗議することくらいしかないのだと、俺たちは言われ続けている。だから、この活動家の男のように、どうか私の話を聞いて下さいと懇願してしまうような敗北を、自分から受け入れてしまうのだろう。

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第三十二回


飯を食わずに抗議をして、それを途中で止めてしまおうと相手に受け入れられ認められようと、あるいはそのまま死んでしまおうと何も違いはない。誰かに分かってもらおうとしていることには変わりがないからだ。理解されるということは喜びであるかもしれないが、同時に一つの侮辱でもあるだろう。簡単に理解されるものは、決して偉大なものではない。だから、その喜びは小さく安易な喜びとも言える訳だ。そんなだらしない喜びのために、自分を分かってもらおうとして断食するなどというのは、甘え以外の何ものでもない。俺には、そうとしか思えない。

誰でも、その場その場の状況に目を奪われて、自分が陥っている問題が分からなくなってしまうことはあるだろう。けれども男のやっていることの中には、そういう事情を超えたものがある。つまり、甘えだ。いまどき単に思想や信条だけで警察に捕まることなどないだろう。だから、男は何かやったのだろう。だとしたら、いつかは捕まってしまうかもしれないことも、そしてもし捕まってしまえば自分が不当だと思うような扱いを受けることがあるかもしれないということも、予想できない方がおかしい。なのに、俺に文句を垂れているこの男は一体何者なのか。

人はただ、自分の決めた戒律に従うことしかできない。不当な扱いをされたとしても、飯を食わないことでそれに抗議するというやり方を、戒律の中に組み入れることはできない。なぜならそれは、自分がどうあるかについてのもののように見えながら、実際には人にどうあって欲しいかということしか意味してはいないからだ。自分以外の人間にどうして欲しいかを、自分の戒律にすることはできない。不当さを訴えるということは、理解されるのを期待しているということではないか。男は、それが当然認められるべきだと思っているのに違いない。

確かに、認められるのが正しいのかもしれない。けれども、まず正しさを無視したのは誰だったか。自分が犯した正しさは無視しても良くて、相手が無視した正しさは尊重されるべきだと、そう言える理由が俺には分からない。多分、そんなことは意識すらしていないのだろう。もちろん正しさはつねに、その場その場で尊重されるべきものだとも言えるのかもしれない。けれども、捕まってしまうほどの大きな正しさを無視した人間が主張する正しさなど、普通は無視されるものだ。

それでも、この男は主張する。自分の正しさを主張する。それも、ハンストなどという甘え切った方法で。俺には、その無邪気さが理解できない。厚かましさの訳が分からない。ひとたび正しさを無視したのなら、もう期待などしないことだ。そもそも正しさというのはきっと、ただ自分が従えば良いだけのもので、人に求めるべきものではない。人に期待など、してはならないのだ。

世界のあるべき姿を求めるところから敗北が始まり、自分のあるべき姿を求めるところから勝利が始まる。それは間違いないことだ。俺は、留置場の壁の向こうから聞こえてくる男の声と、その壁に刻まれている誰かが書いた落書きを見ながら、すべての不徹底な叫びの内側から染み出てくる、ベタベタするだけで何の意味もない恨みが首筋に張り付いてくるような気がした。

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第三十三回


何日か取調べが続いた後で、飛行機山へ現場検証に行くことになった。俺は両手錠を掛けられ、腰縄を付けられた。そして、いつも留置場の中で履いている、トイレにあるようなスリッパを履いたままで連れ出された。きっと、現場検証のときに周りで俺のことを見る奴らだとか、もしかするとテレビに写したり、その映像を見たりする奴らが、俺のことを頭のおかしい生き物だと思えるように、そうするのだろう。つまり例えば、俺のような殺人者が三つ揃えのスーツを着て革靴を履いていたら、それを見た人間は自分を含めて自分がまともだと思っている人間と殺人者との境界が曖昧に感じられて、不安になってしまうのだろう。

心の中にある不安に耐えきれずに、その原因を誰かに背負わせる。そういう単純なからくりは、恐らくずいぶん昔からあるものに違いない。頭がおかしくなったり、何かに精神的に追い詰められたりして俺がヨシタカを殺したのだと、ほとんどの奴らはそう思いたいに違いない。そうやって、現実から目を逸らすのだ。けれどもそれは、俺には理解できないことだ。世界を自分に都合よく解釈できてしまうというその意味が、俺には分からない。どんなに俺が狡賢くて臆病な人間でも、それは絶対にできないことだ。

俺は、ヨシタカを意志をもって殺した。殺人者は何かに追い詰められたりして訳が分からなくなって人を殺してしまうのだろうと、そう思いたい人間には俺の持つ意志など死ぬまで理解できないだろう。実際は、そういう自分の中にある不安を確かに覗いたことのない人間の方が、俺よりもずっと人殺しに近い筈ではないか。訳が分からなくなって人を殺してしまうと想像しているその犯人像は、自分自身のことではないのか。もしそういう人間が本当にいたなら、確かにそれはひどく危険な人種だ。だから、怒りや恐怖で訳が分からなくなってしまって人を殺すような人間をこそ、拘束すべきだろう。

計画性をもって人を殺すより、衝動的に人殺しをする方が罪が軽いというその事実に、俺はまったく納得できない。人間を人間たらしめているものは、その意志ではないか。そして法律自体も、人間の意志によって創り出されたものだ。ならば、法律も意志に場所を取っておくべきではないのか。突発的に人を殺す人間と計画的に人を殺す人間とでは、後者の方が危険だということだろうが、意志をもって人を殺す者は、その意志がなくなりさえすればもう人を殺さなくなる。だからそのことが自分で確認できれば、もう檻の外に出ても良いのだ。そんな意志など信用できないと思う人間がいるとすれば、それは単に自分が一度でも意志を持ったことがないというだけの話だ。もう一方の、一時的な感情で人を殺すような人間は、永遠に檻の中に閉じ込めておかなくてはならないだろう。なぜなら、もう二度としないと誓ったとしても、またいつ感情に押し流されて人を殺すかもしれないからだ。そして殺してしまったら初めのときと同じく、再びこう言うに違いないからだ。つまり、「そのときは、そうするより他に仕方がなかったのだ」と。

飛行機山まで移動するために乗った警察の車の中でそんなことを考えながら俺は、久しぶりの太陽を見て眩しさに顔をしかめた。

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第三十四回


現場検証には虫も来ていた。虫とその仲間たちは、どうやってヨシタカを殺したのかを俺に説明するように言った。

「ちゃんと説明しろよ。隠してもすぐに分かるんだぞ。死人に口なしとはいかないからな」

どこかで聞いてきたような意味のない言葉という鳴き声を口から漏らす虫は、気分が良さそうだ。俺には、特に隠すようなことは何もない。だから、あの晩のことをそのままに再現してやろう。ヨシタカの体を埋めた場所は、あのときは誰かに見つかる筈もないと思ったけれども、こうやって昼間に見てみれば、見つかるのが当たり前のように思えた。まるで埋められた穴自体が、誰かに見つけ出されるのを待っていたかのようにさえ思える。他の人間たちにも見られたことは、きっと良かったのだろう。なぜならそこには意味が満ちていて、俺と同じような人間がテレビを通したり直接見たりすれば、あの爆弾のことがすぐに分かる筈だろうからだ。

関係が意味を生むのだから、現場を見た人間はそれと関係して、そこには新しい意味が宿るだろう。そうやって次々と伝わっていく意味というものが、俺には導火線を走っていく火のように思えた。関係は新しい導火線を形作って、その導火線の先には必ず爆弾があるに違いない。なぜなら、世界は爆弾で満ちているからだ。そうだ。きっと俺たち自身が導火線なのだ。もちろん、それは寄り集まったりなどはしない。ただ、その場その場で速く、静かに、爆発のために走るのだ。虫には関係が分からない。関係を意識して、関係そのものに関わることができない。だから俺がやったことの意味も分からずに、ただ弱々しい鳴き声を出すだけだ。虫には何も変えられない。そして、虫は自分の羽音も鳴き声も変えられない。なぜなら、そういうもの自体を意識することができないからだ。虫はただ鳴くだけだ。自分が直面した事実に反応して、鳴くだけだ。そして本物の虫がガラス窓に対してそうするように、意味と意味との境界に意味も分からずに何度も頭をぶつけることしかできないのだ。虫は関係に関係することなどできないし、意味と意味の間を走る導火線にはなれない。だから、すべての意味を破壊する爆弾には永遠に辿り着けない。

俺は、俺の企てについて新たに生み出された意味を理解できたことで、少しだけ興奮し始めた。そして、現場検証などという下らない手続きの山とは決定的に違うものをそこに感じて、なぜだか感謝したくなるような気持を抱いた。

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第三十五回


警察での取り調べが終わると、検察へ行くことになった。そこには、虫よりも小さい生き物がいた。それもまた現実と同じだということなのだろう。ある虫がいれば、大抵はそれより小さな虫がいる。つまり検察には、あの虫よりも、俺のことを駄目な人間だと決め付けたがっている生き物がいた。

机を挟んで座っている検察の虫は、警察の虫と同じく頭がやはり臭そうな油でテカテカしている。しかし俺はもう、この生き物自体には何も感じない。ある程度以上小さい生き物は、人間にとっては大して問題にもならないということなのだろう。俺は、検察の虫がもう一度繰り返し聞いてくる警察にいた虫とまったく同じ質問に応えながら、そもそもあの警察にいた虫にしても、それについて何か言うべきような生き物ではなかったのだろうと、そう考えた。人間にとって虫の存在などは大きな問題ではないが、人間の「虫」は現実の虫と同じく、いきなり自分のすぐ目の前に現れたり、鳴き声が耳に入ってしまったりするから、どうしても驚かされて大げさな反応をしてしまうこともある。きっとただ単に、そういうことなのだ。

俺は警察の虫に話したのとまったく同じ話を検察の虫にしながら、虫には意志がないのだから、ただ繰り返しがあるだけなのだろうと思って、その無駄さも観念した。虫にしてみれば毎日違う事件を扱って、その都度新しい体験に思えているのかもしれない。けれども、虫のやっていることは単なる手続きの繰り返しで、そのこと自体を捉え直すことがないので結局はただの反応にすぎない。人間は、自分の存在を意識することで不安に陥る。自分はいまのままで良いのかという不安と、自分自身を完全には捉えられないことへの不安だ。そして、それこそが爆弾を育てるものだ。

不安が、あの爆弾を膨れ上がらせる。爆弾の中には、ジメジメした不安が充満している。それが、これもまた瞬間ごとに生み出されている白けによって完全に湿度を奪われ、それ自体一個の乾きに変わることができれば、あとは点火されるのを待つだけになるのだ。虫には不安も白けも、決定的に欠けている。それは虫が虫であるせいで、もしかすると虫が悪いのではないかもしれない。人間は全能にはなれない。同じように、虫は不安にはなれない。俺は、虫が唯一求めることができて、だから獲得することができる反復を与えてやりながら、爆弾は何によって点火されるべきなのかを考えた。

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第三十六回


検察でやったこともやはり、ただの確認作業でしかなかった。検察の次は、俺が少年だということで家庭裁判所へ行くことになった。家裁でも同じことが繰り返され、結局、家裁の決定で鑑別所に行くことになった。たらい回しのようにされるのはいかにも厄介者として扱われているようだが、それについて少しも悪い気はしていない。多くの人間が自分の居場所を探してさまよっているけれども、もしそれを見つけ出したとして、そこに安住して眠り込んでしまえば、そいつはもう終りだろう。

鑑別所への移動は、周りにカーテンが掛けられて中が見えないようになったワゴン車だ。いつもの通り、少年の人権に配慮しているということなのだろう。けれども、実際にカーテンを閉めた人間も本当は人権を尊重したい訳ではないのだろう。要するに、人権に何の配慮もしていないと言われないようにしたいだけのことなのだ。俺は、俺の尊重された人権によって再び自由の身になって、また誰かを殺すだろうか。

役所然とした建物の前で車が停まり、車から降ろされた。入り口の周りが青いシートで覆われて、外から見えないようにされている。野次馬どもに罵倒される中を背筋を伸ばして堂々と歩こうと決めていたので、俺は失望した。シートによって青ざめた空間を抜けながら、俺は一年ほど前に傷害事件を起こして捕まった批評家のことを思い出した。男は辛辣なことで知られていたが、護送車から降りるときにジャンパーを頭に被って隠れるようにして出てきた。その光景をテレビで見たとき、男の批評がすべて悪ふざけでしかなかったのだと俺は悟った。その瞬間に男のした批評のすべては死んだのだ。

そのときまで俺は、たとえ誰が書いたものであっても、そこに書かれた文の意味だけが重要だと思っていた。けれどもそれからは、書かれた文の意味は書いた人間のあり方によって決まるのだと分かった。つまり完全に同じ文であっても、誰が書いたかによってその意味は変わるのだ。恐らくまったく同じことが、すべての行動についても言えるだろう。積み上げられた過去の行動によって行為者が意味付けられる。そして新しい行為の意味は、そうやって生み出されつつある行為者そのものとの関係によって初めて、確かなものになるのだ。

だから俺は堂々とした態度で、車から降りようと考えていた。誰かに対して胸を張るのではない。ただ自分のしたことを自分で意味付けるために、そうするのだ。けれどもその目論見は、俺の人権によって潰されてしまったのらしい。

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第三十七回


車が辿り着いた、その「少年を鑑別する」という頭がおかしい奴が付けたとしか思えない名前の建物は、施設だった。学校や病院に代表されるような、どんな意匠もなく、少しでも意匠を凝らせば、取って付けたようになってしまう、あの施設だ。俺はもうずいぶん長い時間を施設ですごした。これからもきっと、そうなるのだろう。

俺は、水色の作業服のような上着を着た男に引き渡された。男はすぐに、施設内でやらなければならないことを俺に説明し始める。知能テスト、心理テスト、それから面接に作文。その結果によって、俺の何かが分かったことにされるのだろう。そして、俺をこの施設から出しても良いかどうかが決められるのだ。けれども、もしここから出られることになっても、またきっと俺は別の施設に入れられるに違いない。

男の、優しげなつもりらしい表情に導かれて、狭い教室のような場所へ案内された。そして早速、俺を理解するための心理テストが始められた。印刷された紙には「私は神の使いである」だとか「誰かが私を陥れようとしている」だとかいう頭がおかしくなりそうな質問が何十個も並べられている。それに「いいえ」「いいえ」「いいえ」とマークしながら続けて答えていくと、問題のそのあまりの執拗さに息が詰まるような感じがしてきた。そして、おかしな質問を大量にされたら、一問くらいは間違って「はい」と答えてしまうのが普通なのに、すべてについて否定をして「いいえ」と答え続けるという、そのこと自体が異常なことだと解釈されるのではないかと、そんな余計な考えが頭に浮かんでしまって、訳が分からなくなりそうになってきた。「自分はどちらかと言えば内気な方だ」というような普通の内容のものも交えて、百五十ほどもある質問の最後の方になると、バカげた質問に強制的に答えさせられるという事実と、自分の正常さへの不安にムカついて動悸がし始めた。

立ち上がって「もうやめてくれ」と叫び出したくなる。けれども、異常な質問を連続して出されても決して叫んだりなどしないということをこそテストされているのかもしれないと思って、冷や汗をかきながらも何とか我慢してすべてに答えた。壁に掛かった時計で脈を測ろうとしたが、自分自身を見すぎるのは良くないと思ってそんなことはやめにした。動揺しているのを見られてはいないかと施設の男を見たが、窓の側に立って、ただ外を見ているだけだ。俺を理解するための情報は、俺の顔にこそあるのに、だ。

すべて答え終わってもう一度見てみれば、目の前に並べられている問題などは、まったくバカげたものでしかない。自分が一体に何を不安に思い、焦り混乱していたのかが分からなくなって、声を出して笑いたくなってくる。こんな風に心があまりに早く変わってしまうのは、「自分は神の使いである」という質問に「はい」と答える以上に、異常なことかもしれない。きっとこの先どれほど狭い牢屋に入れられることがあったとしても、俺がさっきまで閉じ込められていた場所よりは十分に広いに違いない。俺のことを誰がどこに閉じ込めようと閉じ込められない場所が俺の中にあるのだし、誰も閉じ込めたりなどしていないときでも、自分が自分に閉じ込められてしまうような場所があるのだろう。

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第三十八回


施設の職員数人との面接が何度もあって、そこではもう話すのも飽きてしまったヨシタカを殺したときの詳しい状況と、それから被害者に対してどう思うかということを毎回必ず聞かれた。俺はいつでも、あのときのことについてはこれ以上ないほどに詳細に話して、ヨシタカに対しては特に何も思わないとだけ応えた。恐らく、自分のしたことをはっきりと認識して、そのうえで相手の痛みが分かるようになれということなのだろう。

けれども、俺は自分のしたことを分かっているのだし、それに何と言っても相手の気持が分かるなどと思ってしまうのは、酷く厚かましいことではないだろうか。相手の立場に立って考えるということは、相手が自分にとって理解できる存在でしかないということを前提にしている。しかし、その前提はどこから生まれたのか。自分がされて快くないことを正しくないこととして人を責めるというのは、自分の基準がつねに通用するという勘違いから生まれたものだ。だから、それは酷く厚かましいもので、そこには救い難いほどに悪質な無邪気さがある。

一体、人の痛みが分かるということは、どういうことなのか。人の痛みが分かる人間には、それが分からない人間が分からないがゆえに見舞われる困難が分かるだろうか。その痛みが分かるのだろうか。それでも、分からない人間を責めるのだろうか。あるいは分かるからこそ、それを変えさせようとするのだろうか。少なくとも俺には、そうとは思えない。そもそも、痛みとは何か。心とは何なのか。俺と面接をしている男には、それが分かるのか。人のことが分かるのだと思ってしまえる、その厚かましさは一体何なのか。そのことが人に与える不快さを理解しているのか。それすら理解できないのに、人の気持が分かるようになるべきだなどと、どうして人に対して言えるのか。それとももし理解しているのなら、どうしてそんなことが言えるのか。人の痛みが分かるようになれという無邪気な言葉を耳にするとき、いつも俺は思う。そういう人間は自分以外の人間を鈍感だと考えているが、しかし、まさにそれこそが鈍感な人間の印なのだ、と。

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最終回


結局、俺が捕まってから俺の身に起こったすべては、夥しい手続きの連なりにすぎなかった。つまりそれは何度も考えたように、それぞれの人間がただそうしたいからするというのではなく、それをしないことで非難されることがないように仕方なくしているという類のものだ。俺は実刑を受けるべきだとして、検察に再び送致されるだろう。あるいは俺の爆弾の話を聞かせてやれば、精神に障害があるとみなされて医療少年院に入れられるだろうか。いずれにしても、俺には爆弾を練るための十分な時間があることになる訳だ。そうなれば俺の爆弾はその時間を十分に吸い尽くして、際限なくと言えるほどまで肥大化していくだろう。

けれども、俺には分かっている。本当は、爆弾などありはしないことを。しかし、俺が思っているその想像の中にしか存在しない爆弾が俺の世界を変えてしまったということは、動かすことのできない事実だ。俺の考えによって、俺にとっての世界が変わりヨシタカを殺すことができて、結果として実際の世界が変わってしまった。俺は世界を変えることができた。だから大事なのは、世界をどう見るかという、その見方なのだ。

俺は「鑑別作業」が終わった後の休憩時間に、施設内の図書室でそう考えた。書棚には、毒が含まれていないと奴らが思っている本が並べられている。けれども、きっとそこにも毒はあるのだろうと思って、俺は聖書を取り出した。それは、もちろん神に救いを求めるためなどではなく、多くの人間が信じているような世界を見る見方を知るためだ。それによって俺の世界をもう一度、変えられるかもしれない。そこには多くの人間を魅了する秘密が書かれていて、もしかするとそれが爆弾を強く大きくするために役に立つかもしれない。しかし恐らく、得られるものは何もないだろうとも思える。なぜなら、信じるということ、つまり何かを正しいとして疑わないということは、こうして言い換えれば明らかなように、すでに一つの誤りであるからだ。だからそんなものを前提にした世界が、何ものかである筈がないのだ。とは言え、何にせよ知りもしないものを語ることはできないし、知らないものを通して世界を見ることもできない。それは俺には明らかなことだし、俺はいつでも俺にとって明らかなものだけに従って生きてきた。

俺は、聖書を開いて読み始めた。すると、はじまってすぐに書かれている一節によって、真実を知らされた。

神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。

そうだ。やはり、はじめに光があったのだ。爆弾の爆発による、光が。つまり、俺は探していたものをすぐに見つけ出した。俺が探していたのは、爆弾を爆発させるために、それに点火をするものだ。結局のところそれは、何億もの人間が真実だと信じる書物の解釈では、神の「意志」であった訳だ。俺はそんな風に世界を解釈することを少しも正しいとは思わない。しかし、そこに新たな光を見た。そして、その光に照らされた新たな企てをもまた、見出した。神から見れば、俺も恐らく、虫のようであるだろう。ならば俺もまた、虫と同じく反復を生きよう。「光あれ」というその意志によって、世界の創造を反復しよう。俺はいまこうして、やはりこれからも爆弾に導かれて行かなければならないのだということを、はっきりと悟った訳だ。神も爆弾も存在しないことをもまた、強く意識ながら。

−完−

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