男は、山の麓にあるあばら家で炭を焼いて暮らしていた。醜い大男で、一頭の美しい馬を飼っていた。その馬は、毛並みも肉付きもそうであったが、特に目が美しかった。男の厚く垂れた瞼のむこうにある、いつでも濁った光を放つその目は、馬の美しい瞳と比べられて、村の者たちに物笑いの種にされていた。
男の家の裏手には、山があり、深く暗い樹海が広がっていた。家はその前の道を除いてほとんど樹海に飲み込まれそうにして立っていた。男は、だから、村の一番端に住んでいたのだった。その山には、奥深くに美しい滝があるという言い伝えが昔からあった。けれどもまた、山奥の樹海に一歩でも足を踏み入れれば、二度と戻ってはこられなくなるというようにも言われていた。しかし、村の中でただ一人、その男だけは、これまでにその美しい滝を何度となく見てきたのであった。
男がはじめてその幻の滝を知ったのは、半年ほど前のある日のことだった。
男は、長い間、炭を焼いて暮らしていたが、暮し向きは楽ではなかった。毎日同じことを繰り返して、しかし、いま以上に何か少しでもよくなっていきそうなことが、男には何一つ思い当たらなかった。木を切り倒して運び、手頃な大きさに割って窯の中に並べ、そして、火の熱さに耐えながら蒸し焼きにし、できあがった炭を窯から出し村の者たちに売るという、その何度もしてきた繰り返しの中に、どういう意味があるのかが分からなかった。
すべての営みは、繰り返しの中で意味を失ったのではなく、ただはじめから意味などなかったのではないかと、そんな風にしか思えなかった。毎日の暮らしが嫌になってしまったというのではなく、ただ意味のないことを続けるのを辞めてしまおうと考え、男は馬を連れ出すと、ぼんやりと死を思いながら樹海の中に入っていった。馬を連れて出たのは、残していくのが哀れに思われたからか、道連れが欲しかったからか、あるいは、誰か村の人間のものになってしまうのが口惜しかったからか、その理由もまた男には分かりはしなかった。
馬とともに樹海に入ると、そこには、男の暮らしよりもはっきりとした濃さを持った木々が生い茂っていた。けれども、草の背は割合に低く、馬と一緒に進んでいくのはさほど難しいものではなかった。木々の枝葉によって日の光は遮られ、しばらく進むとどの方角へ進んでいるのか、まったく分からなくなってしまった。そしてまた、緩やかな斜面を登ったり降りたりするのを繰り返して、おそらくかなり高いところまで来たはずだとは思ったけれども、山をどのくらい登ったのかも分からなくなっていた。
男は、もう自分にはまったく帰り道が分からなくなってしまったので、家に戻ることができずに、このままどこかで死んでしまうのだろうかと、それを受け容れるでも拒むのでもなく、ただ漠然とそう思っていた。道に迷いながら、心の迷いもそのままにして、馬と一緒に木々の間を当てもなく進んでいると、やがてどこからか、遠いためにかすかにしか聞こえなかったが、しかしごうごうと大きな水の音がしているのに気が付いた。
男は、馬の手綱を引いて、音のするほうへ進んでいった。音はしだいに大きくなって、木々に流れが遮られ淀んでいた空気が少しずつ冷たく澄んでいくように感じられた。そして、ついには、男と馬は木の生えていない少し広い場所へと出た。目の前は崖になっていて、その向こうには、昔から村人たちの話に聞いた滝が見えた。
幻の滝は、男のはるか上からまたはるか下へと厚い水の帯を作り、遠かったがしかし新しい冷えた空気を、男がいる崖のところまで放っているようだった。男はただ立ち尽くしたままで滝を見ていたが、馬はやがて、しだいに崖の方へ近づいていった。まさかとは思ったが、放っておくと馬が崖から落ちてしまうように思えて、そして実際に、馬はそう考えてもおかしくはないように迷いもなくまっすぐに進んでいたため、男は精一杯の力を込めて手綱を引っ張った。
こいつは、崖から落ちたら自分がどうなるのか分かっているのだろうか、とそう思いながらも、樹海に足を踏み入れて、その中で迷ってしまえばどうなってしまうのかを、果たして自分は分かっていたのかとも考えた。
(死ねばどうなるかは、俺も分からないし、こいつも分からない。だから、こいつは死ぬべきではないし、俺もまたそうなのだ)
一応は自分の主人であることが分かっているのか、まだ前に進む気を見せていた馬は、男のどうどうという声と手綱を引っ張る力にすっかり逆らってしまうことはせずに、少しずつ崖から離れていった。男は馬を引いたまま、もと来た森の中へ少し戻った。手綱を木に括りつけて一息ついたが、生きるべきだとは言っても、もはや帰る道も分からないと考えて、しばらくそこでぼんやりとしていた。
やがて馬が落ち着いてきたので、男は手綱を木から外してやった。馬はもう崖の方へと近づくこともなく、逆に森の中へと静かに歩き始めた。男は、死ねばどうなるのかが分からなかったし、また、どうすれば生き延びられるも分からなかったが、とにかくいまは生きられるところまでこの馬とともに生きようと考えて、馬と一緒に歩いた。
馬は、男を連れて、斜面を登ったり降りたり、また、左に折れたり右に折れたりしながら、しかし、何の迷いもないような顔をして休むことなく進んでいった。足場が定まらず、馬の背に乗るのは危険だと思って、男は家を出てからずっと自分の足で歩いていた。そのうえ、あの滝を見てからの馬が速い足取りで休みなしに進むので、そろそろ休みを取らなくてはならないだろうと、男は少し息を切らせながらながら考えていた。
まだまだ山奥に自分がいるのだろうと思っていたが、ふいに視界が開けて、男と馬は、家から村へ向かう道を少し進んだところへと出た。馬はそこで立ち止まり、家へ戻るか村の方へ出るか、男の指図を待っているかのようだった。男は、家に戻って馬を繋ぎ、干草を食べさせた。それから、自分も飯を食うと、早いうちから横になってしまった。耳の奥には、長いこと滝の音が残っていた。
眠りについてしまう前に男は、これからはとにかくよい炭を焼こうと思った。そして、自分の心も湿っていて、だから、それを木と一緒に燃やしてしまわなければならないのだと考えた。しかし、そうした自分の決心を村の誰にも言わないこともまた、心に決めた。それは、自分がもしかすると死んでしまうかもしれない迷いの中にいて、そこからまた生きて帰ってきたときに、もう一度はじまった暮らしの中で、新しい決意を心にを抱くようなことが、何か空々しい気がしたからであった。
男には、親がいなかった。男は、幼い頃、ここに住んでいた炭焼きに拾われ、育てられた。父親は男が生まれてすぐ何かの病気で死に、母親は男をおいてどこかへ行ってしまったのだと、その親代わりの男から聞いた。育ての親である炭焼きの男は、五年ほど前に死んだ。男は、その育ての親とはあまり話をしなかった。ただ毎日、炭を焼く仕事を手伝っていた。幼い頃から、昼には丸太を乗せた橇(そり)を引っ張り、夜は寝るまで火の番をした。炭焼きの男が死んでから、男は、教わった通りに炭を焼いて、ただ毎日をやり過ごしてきた。
滝を見て帰った次の日から、男は、それまでは樫しか焼いていなかったが、松や栗、楢など、山に生えている木を色々と燃やして、炭を作ってみた。中でも栗の木は、火がついてもすぐに立ち消えてしまうため、家を暖める役には立たなかったが、風を送ると熱く燃えて、鍛冶仕事には向いた炭となった。村で鍛冶屋をしている男と話し合いながら色々と試すうちに、若木でなく、大木が枯れて倒れたようなもので、十分に乾いて硬くなったものが、特によいということが分かった。それまで男が作っていた炭は橙に燃えていたが、よい栗の木を選んで作ったものは、鞴(ふいご)で強く吹くと、青白い炎を出して燃えた。
男は、ともに心を合わせて炭を作るうちに、鍛冶屋の男と親しく話をするようになった。そして、あるとき思わず、山の奥で見た滝の話をその鍛冶屋にしてしまった。幻の滝の話は、すぐに村中の人の知るところとなり、しばらくすると、死に場所を求める者が男の家を訪れるようになった。そうした者たちは、大概、人から見られるのを嫌って、夜中になり辺りに人気がなくなってから男の家の戸を叩いた。そんなとき男は、夜中では森の中を進めないから、朝早くにもう一度来るようにと言った。そして、自分の持っているものすべてを代(しろ)として差し出すのが条件だと、そう付け加えた。
死ぬのが恐ろしくなり考え直したためか、男の言葉を強欲として怒ったためか、あるいは、この世に残していく近しい者たちに何もおいていくことができないのを嫌ったからか、本当の訳は分からなかったが、男の言葉を聞いた者の多くは、次の朝にはもう男の家に来ることはなかった。それでも、いくらかの者たちは、前の晩に男のもとを訪れてから一睡もしなかったというような顔をして、まだ薄暗い中で男の家の戸を、あるいは焦燥のために強く、あるいは憔悴して力なく、叩いた。
男は、死にたいというその者が、どんな年であろうと、そして、どういう理由で死にたがっていようと、滝までの道案内を断ることはなかった。まず何より、そんなことを少しでも聞こうとはしないのだった。聞いても何と答えてよいか分からないようなことは少しも聞かず、案内を願う者の持ちものすべてを受け取ると、険しい山の中を歩くのが難しそうな者であれば馬に乗せて、そうでなければ一緒になって、ただ馬が進んでいくのに任せて崖までの道を歩いた。
死に急ぐ者を連れて山の中に入るようになったはじめのうちは、また馬が滝のところまで自分を連れて行ってくれて、そのうえもう一度家まで返してくれるということを、信じてなどいなかった。だから、男は、今度こそは自分もまた死んでしまうかもしれないと思いながら、しかし、もしもそうなってしまったときには、連れて行った者とともに山のどこかで死んでしまおうと思いながら、少しだけ待ち望むような気持と恐れとを抱えて、山の中を歩いた。
また、男にはもう一つ定まらない期待がその心にあった。それは、死にたいと言っている者も、あの滝を見れば、もう死にたいなどとは言わなくなるだろう、という思いであった。男は、はじめてあの幻の滝の前へ出たとき、馬が崖へと進み出したから自分の心が変えられたのだと思ってはいたが、しかし、本当は美しい滝を見たから生きようと思ったではないかというようにも、考えていた。だから、山の中を進んでいって、もしも滝のところまでたどり着くことができたなら、一緒に行った者もあの滝を見て、心を変えてくれるような気がしていたのだった。
けれども、ほとんどの場合、男の期待は裏切られることとなった。馬は、山へ入ったときにはいつでも男たちを滝のところまで連れて行ったし、ほぼすべての者は、滝の側の崖まで行くと、そこから身を投げたり、自分を置き去りにするように男に言ったりした。そしてまた、馬はつねに再び、男を家のすぐ側の道まで連れ戻すのだった。
しかし、ときには、幻と言われるその美しい滝を見たからという訳ではないかったが、森の途中で、やはり死にたくないと言い出す者もいて、そんなとき男は、馬の向きを真後ろの方へ向けさせて、しばらく待った。すると、馬は二三度その美しい目を瞬かせ、また男の家の方へと歩いていくのだった。家に着くと男は、山へ出かける前に預かったものをすべて、もとの持ち主へ返してやった。
死にたいという者たちを、何度も山の奥へと連れて行くうちに、男は色々なものを手に入れた。それは、髪飾りや櫛や反物であり、また、刀や鍬や壷や掛け軸だった。男はそれらをすべて、金に替えて、しかし、ほとんど使わないで、袋のようになっている自分の帯の中に詰め込んだ。
何人もの村人の行方が知れなくなり、また、男が色々なものを金に替えていることを知ったので、村人たちは男を疑りはじめた。しかし、誰も何かはっきりとしたことを知っている訳でもなかったし、死なずにこの村にまた戻ってきたどの者も、炭焼きの男が持つその秘密を語ることはなかった。それに、鍛冶屋のように男を必要とする者も村の中にはいたので、男が捕らえられたり、懲らしめられたりするようなことはついぞなかった。それでも、中には、男が村人たちから盗みを働いたうえに、崖から突き落として殺したのだと考えて、陰で男のことを鬼と言うような者もいた。
男は、死にたいという村人たちを死に場所まで連れて行く者と、その者を死にたい気持にさせた周りの者とでは、どちらが鬼だろうかと思って、少しおかしいような馬鹿らしいような気がして、心の中で少しだけ笑っていた。けれども、自分が村人を山奥まで連れて行ったことを知られるからということもあったが、それとは関わりなく、ただそれ自体が言ってはいけないことのように感じられて、鍛冶屋にも、そして村の誰にもその自分の嘲りを語ることはなかった。
ある朝早く、男の家に一人の女がやってきた。女は、強く何度も戸を叩いて、真っ暗な男の家の中に大きな音を立てた。男が飛び起きて戸に立てかけたつっかえ棒を外すと、女は乱暴に戸を開いて、いますぐ幻の滝まで連れて行けと荒い息で喘ぐように言った。急に起きたために胸がとても早く鳴っていた男は、いつものように、まだ暗いからと追い返そうと思ったが、辺りは白々と開けてきている頃だった。
女を見ると、後ろで結った髪は乱れ、その顔は、癪を患ったかのように苦しげに歪んでいた。
「早く」
そう言って女は、右手にわしづかみにしていた反物を、男の目の前に突きつけた。男がそれを受け取って眺めていると、女は目を吊り上げ、肩を怒らせて、これでは駄目だなどとは絶対に言わせない、というような顔で、男を顔を睨み付けていた。男がその目を女の方へ移し、黙ってうなずくと、すぐに女は家の中を見回して、隣りの馬小屋の方へと開け放たれていた戸から出ていった。男は、少しの間、ただ呆気にとられて見ていたが、褞袍(どてら)を羽織うと、女の後に続いて出た。
馬小屋では、すでに女が馬に跨っていた。男は、女から伝わるその胸の中で渦巻いている激しい憎しみと怒りに気圧されながらも、それを大したものでないと思おうとして、やれやれと心の中で呟いてから、手綱を解き、馬を小屋から出した。道中、女は、夫が若い女と駆け落ちしてどこかへ行ってしまったことや、ここに来るすぐ前に、生まれたばかりの女の赤ん坊の首を絞めて殺したこと、そして、これから自分も死んで、夫のところへ化けて出てやるのだということを、気が昂ぶったようすで話した。
男には、女の夫がしたことが、その結果引き起こされたことに見合うものか、分からなかった。そして、そんなことを考えること自体、おかしいのはないかとも思ったが、それもやはり分からなかった。また、女が抱いているような強い憎しみが、自分が受けた仕打ちに相応しいものであるかが分からなかったし、本気でそんなことができると思っているのかは知らないが、化けて出るなどということが本当にできるのかも、まったく分からなかった。だから、男はただ黙ったまま、うんざりとしながら馬を引いていた。
しばらく歩き、滝の音が聞こえ出して、それが少しずつ大きくなると、女はだんだんおとなしく静かになっていった。そして、ついに滝の見える崖に着くというときには、落ち着かないようすで目をきょろきょろさせ、口の奥の方で何かを呟いていた。崖の手前で馬を止めて、その顔を覗いた男を見ると、女は再び怒りを思い出したようにして顔を強張らせながら馬を下り、男に、もう帰るようにと忌々しげに言った。
男は何も言わずに踵を返すと、馬をもと来た道へと引いて歩き始めた。再び森へと入る辺りで後ろを振り返ったとき、女は何かを求めるように男の方を見ていた。その顔を見て男は、頭を押さえつけられて醜いものを無理に見せつけられたような心持ちがして、酷く腹が立った。そして、素早く向き直ると、もう二度と振り向くことなく、急いで歩き続けた。
なぜそんな目で見るのか、どうして、自分で決めないのかとそう思い、何度も「畜生め」と悪態を吐きながら、男は馬に引かれ、森の中を歩いた。途中、後ろで女が何か大きく叫ぶような声が聞こえたが、それからは、また一層急ぎ足になり、息を切らして森を抜けた。
家に着くと、すでに体も心も疲れ果てていたが、まだ昼前だったので、男は炭焼きを始めた。昨日のうちに森から切り出し、楔(くさび)と槌とで細く割った木々を窯の中に並べて、火を付けた。そして男は、あの女も炭を焼けばよかったのだと考えた。
(木を蒸し焼きにしているときの、その熱さを知れば、下らない憎しみもすぐに乾いてしまうに違いない。それとも、女を窯の中へ入れて、よけいに染み付いてしまった湿り気を煙にして捨ててしまおうか。そうすれば、女は、軽く乾いた、当たれば刃金のような音を立てる炭となって、もう泣いたり叫んだりすることもなくなるだろう。けれども、女の炭は、とても優しく扱わなくては前よりも簡単に砕けてしまうかもしれない。いや、山から切り出し、燃やす前の木のように、ただ放っておけば、それでただ調度よく乾いていくのではないか。色々な奴らが女によけいに構うから、女の心は湿ってしまったのではないのか)
そんな風に考え事をしていたので、男はうっかりして窯の口元を閉じて中の火を消すべきときを逃してしまった。急いで口元を土で閉じたが、三日後に窯を開けると、ほとんどすべての木が、炭ではなく灰になってしまっていた。窯の中に少しだけ残った炭は、掻きだすと小さく砕けてしまい、それは、焼かれた女の骨のようだった。
男の家をその女が訪れてから幾日かが経ったある日、また朝方、男は何者かに起こされた。否、起こされたというより、その気配に気付き、ふと目が覚めたのだった。男が布団の中で、恐る恐る目を上げると、すぐ側に娘が一人立っていた。男は、戸につっかえ棒をするのを忘れていたろうかと、また、誰か来るという約束になっていたのに忘れてしまっていたのだろうかと思って、短い間に頭の中で一度に浮かんだ考えに混乱しながら、驚いて体を起こした。
娘は、お河童頭で、年は十くらいに見えた。ただ黙ってその枕もとに立っていたが、男が起き上がると、少し後ずさりをした。そして、しばらくはただその大きな瞳で瞬きだけをしていた。薄暗い部屋の中では、娘の目玉と睫毛だけが生きているようで、見つめると、男はずっと目を開けたままにしたときのように、周りがぼやけて、目が痺れるような気がした。そして、自分がだんだんと小さくなっていくようにも感じた。
ただ黙って見ている男の方に少し歩み寄って、娘は小さな櫛を申し訳なさそうに差し出した。男が受け取って見てみると、櫛は柘植で作られたものようで、ところどころ歯が欠けていた。娘は身を硬くしたまま、恥ずかしそうにうつむいていた。
男は、娘が心配しているように、その差し出したものが金にならないから、滝のところまで連れて行くのを迷っているのではなく、いままで訪れたどの者よりも若い、あまりにも幼すぎるこの娘を崖まで連れて行ってもよいものだろうかと思って、しばらく黙っていた。けれども、男は、いくら考えても自分には分かりそうもないと思ったし、何を思って連れて行けと言っているのかは分からないが、またいくらかの者のときと同じように、道の途中で気が変わるかもしれないというようにも考えた。
「持っているものすべてを差し出せば、連れて行ってやる約束だ。お前を連れて行こう」
男がそう言うと、娘は顔をあげて嬉しそうに優しく微笑んだ。馬小屋まで連れて行き、娘を両手で抱えあげて馬に乗せると、男は幻の滝の見える崖へと歩き始めた。まだ薄暗い森の中を抜けながら、男は本当にこの娘をあの場所へと連れて行っていいのだろうかと、もう一度考えていた。娘は馬の上で、ずっと何かを思っているようで、その顔に微かな笑みを浮かべていた。しばらくして、およそ中ほどまで来たところで、娘は男の前に現れてから初めて口を開いた。
「生まれ変わったら、鯉になりたい」
男は馬を引いて歩きながら、これから死のうとする人間がよく口にする、自分には分からないことをまた言われたと思いながら、ただ黙っていた。しかし、娘が伺うように自分の方を向いたので、仕方がなく億劫そうに口を開いた。
「そうか、鯉か。どうして、鯉だ」
娘は満足した様子で、その小さな顔に笑みを浮かべた。
「鯉は、おとなしい魚だから。おとなしく静かに暮らせるから」
「そうか。おとなしくか」
娘と男は、その後、何も話さなかった。曲がりくねり、何度も二股、三股に分かれた坂道を過ぎて、ついに二人は崖の手前に出た。そこへ着いたとたん、娘は馬から飛び降りて、目をまっすぐ前に走り出すと、そのまま崖の向こう側へ、足を踏み外すようにして落ちてしまった。男は思わず手を伸ばして、開かない口の中で分からない言葉を少しだけ呻いた。そして、そのとき、手の中にあった娘の櫛を足元に落としてしまった。
男はしばし呆然としていたが、崖の向こうからの強い風に吹かれて我に返ると、膝を折って櫛を拾い上げた。けれども、また、動かなくなってしまった。強い風がもう一度吹くと男は、思い出したようにして、腰からぶら下げていた丸太を割るための楔を手に取り、崖のそばのに穴を掘って、娘の櫛をその中へ入れた。男は、穴に土を被せながら、娘は鯉になったのだろうかと考えた。そして、娘もあの女のように大人になって、引き込まれるような憎しみを胸の中に孕ませてしまったならば、もう鯉にはなれないだろうと思った。
娘が崖の向こうに消えたその日からしばらくの間は、男に案内を頼むものはいなかった。しかし、ある寒い日の朝、鍛冶屋が一人の老婆を男の家に連れて来た。老婆は、目が見えないらしく鍛冶屋はその手を引いて、男の家の中へと入った。
「随分と遠いところから来たばあさんらしい。例の幻の滝のところへ行きたいそうなのだが、お前に預けてもよいだろうか」
鍛冶屋の言葉に男は、自分が滝への案内人であることを認めてしまうことになるので、その話を請けてしまってもよいものかとためらわれたのだけれども、お互いに暗に分かっていることであるとも思われたので、鍛冶屋の方を向くと、何も言わずに頷いた。
「ばあさん、この男が連れて行ってくれるそうだぞ。よかったな」
鍛冶屋は、老婆の耳に口を近づけ、大きな声でそう言った。老婆は、鍛冶屋の方へ何度も深く頭を下げた。鍛冶屋は炭焼きの男の肩を軽く叩くと、何も言わずに去っていった。老婆は、懐から櫛を出して、また何度もおじぎをながら男の方へと差し出した。男が受け取ったその櫛は、前に娘がくれたものよりも、もっと古びていて、歯も随分と欠けていた。
男は櫛を自分の懐にしまうと、すぐに家の前まで馬を連れてきて、老婆を馬に乗せるために両手で持ち上げた。老婆は驚き、声を上げて足をばたつかせたが、馬の背に乗せられたのだと分かると、また何度か頭を下げた。
道中、馬の背に揺られた老婆は、お金もないし、眼も見えないので人様に迷惑をかけないようにもう死んでしまいたいのだと、自分の不幸を嘆くという風でもなく落ち着いたようすで、静かにそう言った。そして、これだけ長く生きれば、もう何も思い残すことはないけれども、ただずっと昔に、暮し向きが悪くて、自分が産んだ子供を捨ててしまったことだけが心残りだと、そして、その子が幸せでいるかどうか、それだけが気がかりなのだと、誰に言うでもないように話した。
男は、何も言わずにその話を聞いていたが、次第に、老婆が自分の母親なのだと思うようになった。それは、老婆の姿のどこかが男に似ていた訳でも、何か遠い思い出が蘇ったという訳でもなかった。ただ、自分は捨てられたのであって、子を捨てた老婆が側にいて、お互いに何も覚えていないし分からないのならば、親子だと思ってもよいだろうと、そう考えたのであった。
そして、男は、親であるからには、この老婆をこのまま死なせる訳にはいかないと、そう思った。けれども、一方で自分は、例えばあの娘のときのように、いま自分の頭の中だけにある親子の関係など比べものにもならないほどに深く、とても長い年月を経た関わりを壊すということを何度も繰り返しやってしまったのだから、やはり、その償いをしなければならないのだろうと考えた。だから、男は、老婆と馬とともに崖のところまで辿り着くと、すぐに自分の腰に巻いてある金の詰まった帯を外して、老婆の腰に巻いてしっかりと結んでやった。そして、馬をいま来た道の方へ向かせて、その尻を叩いた。
馬はまっすぐに森の中へと歩き出して、おかしなようすに気づいた老婆は、籠った声で何かを叫んでいたが、その声はすぐに聞こえなくなった。馬の姿が見えなくなると、男は振り返り、娘がくれた櫛を埋めた場所に身をかがめて、再びそこを掘り起こし始めた。
男は、もしかするとあの娘は老婆の孫であったのかもしれないと理由もなしに思って、だから、老婆の櫛も娘のものと一緒に埋めてやろうと考えたのだった。けれども、土の中から出てきた娘の櫛を眺めると、男にはそれが魚の骨のように見えた。そして、それを川の中へ投げ入れてやれば、ずっと下の方まで流れていって、そのときはじめて娘は鯉になれるのだと考えた。
男は立ち上がり、娘と老婆のものであった二つの櫛を滝の方へ向かって放り投げ、これで娘は鯉に生まれ変わることができるだろうし、老婆もまた、そのうちに死んでしまったとしても、娘と同じになれるのだと思った。
しばらくの間、滝を眺めて立ち尽くしていた男は、自分は何に生まれ変わるのだろうかと考えながら、崖からの強い風をその大きな体で、もう一度だけ、受けた。そして、自分がこの崖から落ちてしまったとして、もしも自分の傷ついた体が誰にも見つけられずに、そのまま川のずっと下のほうまで流れていったなら、自分もまた静かな鯉になり、それとも誰かが見つけてくれるのだとすれば、そのときは、体を焼かれて硬い炭になるのだろうと、そう思いながら、崖の方へ向かってまっすぐに歩いていった。
医師の前に、ベッドの上で体を起こした少女が青白い顔をして座っていた。その少女はこれまでも、手首を切っては何度も病院へ来ていた。
確かに、私は何度も自分で自分の手首や腕の内側を切っては、救急車で運ばれ治療を受けて、入院をしたりもしました。けれども、今回は、これまでとは事情が違うのです。どうか、私の話を聞いて下さい。
私は、幼い頃、そう、十歳くらいの頃から、手首を何度も切りました。親や友達に傷のことを聞かれるたびに、そのとき飼っていた猫に引っ掻かれたのだと、いま考えてみれば子供らしい、そんな嘘を付いたりもしました。
私は、私の腕に無数に刻まれた傷を見ては、それを魚の鰓のようだと思いました。だから、私は辛いことがあると、だんだんと呼吸が苦しくなってしまうので、そこで息をするために自分を傷つけているのではないかとも考えました。
多分、私は、誰かに注目されたかったのでしょう。いま、「誰か」とは言いましたが、それは間違いなく母親だったのだと思います。私の母は、私が小さい頃からずっと、感情の起伏の激しい人でした。穏やかにしていると思えば、突然、躁状態になり、また酷く落ち込んだかと思えば、怒鳴り、喚き散らしたりするような人だったのです。
私は、穏やかでいるか、明るいときの彼女だけを、本当の母親だと思っていました。多分、そう思うようにしていたということなのだと思います。けれども、それは間違いでした。なぜなら、短い時間に作り出される様々な感情のすべてが、母から生まれるものだからです。つまり、本当の母というのは、無数の感情の間を、非常に速いスピードで行ったり来たりするような、そういう人間だったのです。
それは、はっきり言ってしまえば、異常なことです。けれども、私は母の異常さを認めることができませんでした。なぜなら、それを認めてしまえば、自分は異常者から生まれ、異常者に育てられた人間ということになってしまうからです。つまり、私は、そんな風に異常者から生まれて、また異常者に育てられたような人間が正常な筈がないと思っていたらしいのです。だから、認められなかった訳です。自分を異常者だと認めること、それは恐ろしいことです。
そして同時に、母は異常ではないと思うということの誤りを、ただその恐ろしさから逃れるために見まいとして目を背けてしまうことが、ついには私を異常にさせるのではないかとも思いました。だから私は、自分の母親を異常と認めたくないと思いながら、しかし、それをやはり認めるべきだと思って、まったく正反対の二つの方向に引っ張られて、少しずつ心が苦しくなってしまったのです。けれども、異常者から生まれ、異常者に育てられた人間は必ず異常者であるという、その考えが間違いであることは、私の密かな確信でもありました。
彼女が感情的な人間であることは多分、私が生まれる前から変わっていないのだと思います。父親は、母を腫れ物を触るように扱いました。私は、ものごころがついてからは、母に対する父のそんな態度こそが母を異常者にさせたのだと思って、次第に父を憎むようになりました。
それでも、母が精神的に不安定である以上、私が少しでも頼りにできるのは父親だけだったので、そんな風に父を憎む気持ちはまた、自分を心細くさせるものでもありました。だから、私はそのことを見ないようにしていました。つまり、感情自体は、それがどんなものであっても、正しかったり間違っていたりするものではないのに、父を憎むというその感情を、それ自体持ってはいけないもののように感じていたのです。
恐らく、母もまた私と同じように、誰かに構われたかったのでしょう。母は強度の偏食でした。それは、母が持っている誰かに構われたいという気持を表すサインだったのだと、私には思えます。偏食であれば、肯定的であれ否定的であれ、そのことに対して何かを言う人がいるものです。
自分の我儘を相手が聞き入れてくれようとくれまいと、何かの反応を引き出せたということで、母は少しだけ満足なようでした。けれども、母のそんな戦略は、必ず敗北してしまうものでもありました。なぜなら、人からどんな反応があったにしても、それは彼女が本当に求めているものとは、別のものだったからです。
直接的であれ間接的であれ、自分が何か働きかけをして、その結果として戻ってきたものは、自然のものではなく、すべて偽物とも言えるもので、そのために母は人が自分に応えてくれるその姿に、いつでも苛立っていました。
それはつまり、支配者の焦燥とでもいうべきものです。媚び諂う取巻きに、最初だけは良い気分になったとしても、そのうち、自分に対して周りがすることはすべて演技であって、だから、真実のものではないと気付かされてしまうという、童話の中に出てくる王様が持つような、あの苛立ちです。
実際、母は激情によって家族を支配していました。多分、自分の気に入る反応を相手に強いる人間は、その相手を侮辱しているのですが、要求の通りに応える側もまた、求めた本人を侮辱したことになるのでしょう。
人を自分の思う通りにしようとすれば、自然なものはすべて消え去ってしまって、ただ苛立ちだけが残ることになるのです。つまり、私の母親は、自分の作った罠に嵌ってもがきながら、それを人のせいにしていたのです。いえ、もしかすると人のせいにすることが始めから、まさしく罠そのものだということなのかもしれません。
もちろん彼女の偏食は、彼女が抱えていた辛さから来たものでもあったのでしょう。つまり、生活のすべてが、激しい感情とそれが巻き起こす辛さとともにあるので、より以上に辛さを増してしまうような気に入らない食べ物は、とても食べられないということなのらしいのです。
だから、彼女の偏食は、「これ以上辛いことはほんの少しでも、もう絶対に受け取れない」という叫び声だったのです。その叫び聞いた人間は、よほど鈍感な人間でもない限り、そこにある悲しみと厚かましさとに眩暈を起こしてしまうほどでした。
結局、私の母は自分の辛さという意識の中に閉じ込められていて、周りの誰にも気遣いをすることがまったくと言っていいほどできないような、そんな人間でした。そのため、母親に愛されていないのではないかという私の疑いは、何度も、これ以上ないほどの確信をもって私の心に浮かんできました。けれども、だからこそ、私はそれを認める訳にはいかなかったのです。
そうして、母に何の気遣いも差し向けてもらえない寂しさに、私は小さな頃から、何度も手首を切っては気持ちを紛らわして、同時に、母に自分の心の飢えを訴えかけていた訳なのです。
ある晩、訳の分からない寂しさを感じて、また手首を切ってしまった私は、そこから流れる血で、絵を書いてみました。それは、天使の絵でした。その天使もまた、手首から血を流していました。私は、手首から流れる血も、そこに宿る悲しみも、天上という私にはどこか分からない場所へ運んでくれるような気がして、そしてまた、どうか運び去って欲しいという願いを込めて、自分の血で、天使の絵を書きましました。
私がその絵を自分のホームページで公開すると、たくさんの人が訪れて見てくれるようになりました。私はとても嬉しい気持ちになりましたが、どうやら手首を切って流れた血で書いた絵ということが、どこかの掲示板で話題になったようなのでした。それで、大勢の人が私のページに来たらしいのです。
それから急に私のページにある掲示板への書きこみが増えて、そこには、「気持ち悪い」だとか、「頭がおかしい」だとか、「血で書いた絵なんて、嘘をつけ」だとかのメッセージが書かれていました。
掲示板はそんな風にして荒らされしまい、すぐにやめてしまわざるを得ませんでした。けれども、その後も、公開してあったアドレスには、私を攻撃するようなメールがたくさん送られてきました。それでも、中には、私の絵に感動したと言ってくれる人もいました。そんなことがあって、私が注目されたいと思うその対象は、母親から、モニターの向こう側にいる会ったこともない人たちに、少しずつ移っていったのです。
私は、以前とは違って、はっきりとした目的を持ちながら、手首を切るようになりました。ホームページで予告をして、実際に手首を切ったときには、リアルタイムでその報告をしました。すると、アクセスは異常なほど増えていきました。立ち上げたときは、自分しか見ていなくて酷く悲しい気持になったそのページが、短期間で毎日数百人もの人が訪れるようになり、それは何度かリストカットを予告して、絵を発表するうちに、すぐに数千になり、結局、数万人まで膨れ上がりました。
そんなことをしているうちに、私が抱えていた、あの「注目されたい」という渇望は満たされるようになり、私は以前ほど寂しさや苦しさを感じなくなっていきました。そうして、感情だけに押し流されてリストカットをするようなことは、ついには、まったくなくなってしまったのです。
心が落ち着いてきたことを自分のページ上で報告して、「もう血で書いた絵も書けそうもありません」と知らせると、たくさんの人が祝福のメールを送ってくれました。私は、そのこともまた、来てくれている人たちに報告して、お礼を書きました。けれども、多くの人からの反響があった私に嫉妬したのか、「裏切られた」などと言い出す人も出てきました。
そのうちの何人かは、私と同じリストカッターで、ネット上でチャットをしたりするだけでなく、実際に会ってお互いの傷跡を見せ合ったりしているのだと、噂ではそう聞きました。私はそのことを知ると、自分のことは棚に上げてしまって、心の歪んだ人たちだと感じて、気味悪く思いました。
休止の宣言をしてから二三日後に、どうやったのかは分かりませんが、彼らの中の一人が、私の名前や電話番号を調べ出して、直接、私のところに電話をしてきました。その人は女性でした。私の絵のファンで、けれども、もう生きていくのが辛いので死んでしまおうと思うが、その前に一度だけ会った欲しいと、そういうことを言ってきました。
私は、その話を信用しました。そして、自分が暗い絶望の淵に落ち込んでいるときには、誰の話も聞きたくないと感じていたのに、逆の立場になったそのときには、相手を説得して死ぬのをやめさせようと考えました。だから、彼女の提案の通り、夜中の公園へ出かけていきました。私は、彼女が指定した公園に近づくと、自分のシャツの袖を捲り上げました。自分の傷を見せることで彼女と通じ合えるような、そんな気がしたからです。
けれども、呼び出された私は、突然、後ろから誰かに殴られました。それから、何人かの人に体を掴まれ、手首をカッターのようなもので深く切られてしまったのです。私はたくさんの血を流しながら、地面に倒れました。驚いたことに、そこには、白い大きなキャンバスが敷かれていました。私を呼び出したその女性は、仲間と一緒になって、私に最後の作品を無理矢理に書かせようとしたのです。それも、私自身の体を使って。
つまり、私はその大きなキャンバスに、私の最後の作品として、等身大の天使の絵を自分の血で書いたのです。私は、その絵のことも、誰か誉めてくれる人がいるのだろうかと思いながら、自分の意識が薄れていくのを感じて、ついには気を失ってしまいました。それからしばらくして、偶然、公園を通りがかった人に発見されて、私はここへ運び込まれたのです。
警察の人の話によれば、私の最後の作品になるはずだったその絵は、私が救急車に乗せられたすぐ後に振り出した雨のせいで、消えてしまったそうです。私がさっき、このベッドの上で目を覚ますと、目の前には心配そうに私を見つめる母の姿がありました。
血をきれいに洗い流され、白い寝巻きを着せられて、シーツに包まった私の姿が、母には天使のように見えたでしょうか。
医師は、少女の話を最後まで、何も言わずに聞いていた。けれども、少し前まで別室で会っていた父親の話から、少女の母親は彼女が幼い頃にすでに死んでいるということと、少女が誰かに襲われたなどという事実はないことを知っていたので、その話に酷く暗い気持ちになった。
その男の嗅覚は普通の人間とは違っていた。違っていたとは言っても、犬のように微かな匂いを嗅ぎ分けられるというような優れた能力を持っていたのではなく、逆に普通よりいくらか劣っているのであった。
その能力の低さというのは、匂いを感じ取る力が弱いという部分と、ある種類の匂いが嗅ぎ分けられないという部分とからなっていた。自らの嗅覚について、自分は他の人たちとは違うのだと彼が気づいたのは、彼がまだ幼い頃のことだった。
学校で見学のために連れて行かれたビール工場や製紙工場について、家が貧乏で嫌な匂いを放っていたクラスメイトについて、給食室から吹く生暖かい風について、そしてどの生徒も毎日使っている消しゴムや鉛筆について、少年の頃の彼は自分がそれらの匂いについて皆とは違った感覚を持っていることに気づいていた。
しかし、その頃の彼は、ぼんやりとした違和を感じていながらも、自分にとって匂いの世界が曖昧なのは、彼の親がこういう匂いはこう呼ぶのだというようにしてそれぞれの匂いについてきちんと機会を作って教えてくれなかったからなのだろうと、何とはなしに思っていた。
二十歳になったこれまでの間に男は、少しは話が通じると思えるような幾人かの人に、彼の鼻について、その欠点を話してみたことがあった。しかし、無邪気な人たちは、「それでも普通の匂いならば分かるのだろう?」という問いを彼に返してきた。彼は自分がいつも出会うそうした反応をとても不快に感じていた。
自分がした告白に対しての軽い驚きとそこから生まれた少しのうろたえとが、相手にそんな言葉を吐かせていることを彼は理解していた。しかしそれでも、普通の匂いとはいったい何のことかと、その言葉の無邪気さに苛立った。
確かに、色盲の人間も全ての色がまったく分からないということではないのと同じように、彼もまた匂いというものすべてが分からないという訳ではなかった。
男には、彼の告白を聞いた普通の鼻を持つ人たちが、彼にも自分たちと同じように匂いが嗅ぎ分けられるのだが、ただそのそれぞれの匂いがどう感じられるかが自分たちと違っているのだろうと想像しているように思えた。つまり色に喩えて言うなら、青が赤に見え、赤が青に見える人のように。
けれども、青が赤に見える人間は青を赤と言うだろうことが明らかなように、その考えは正しいものではなかった。様々な匂いがそれぞれ色づけされた領域を持つ匂いの分布図のようなものがあるとするならば、男の感じる世界の中でのそれは、使われる色数が少なく、別の色であるべき領域が一つの色で彩られている、というようになっていた。だが、そうした言わば匂いの分布図のようなものは誰も提示したことがないために、彼の抱える困難は曖昧なままにされていた。
男はときに、嗅ぎ分けられなければ死んでしまうような匂い、 という観念を弄んだ。ガスが漏れているときの匂いは彼にも確かに分かっていたのだが、例えば何かが燻っているときの、あるいは何かが腐敗しているときの、しかも自分には分からないような微かな匂いのように、それに気付かずにいて、しかもそのせいで命を落としてしまうような、そういう匂いというものがあるだろうと考えていた。しかし、ただそうしたものがあるに違いないと思っていただけで、実際にその観念に脅かされているわけではなかった。
そしてまた男は、つねに自分とは隔絶されている世界の鮮やかさについて思った。自分だとて食べものが旨いという感覚は持っている。しかし、普通の人間の、つまりは色々な料理が醸し出す複雑に絡み合った匂いというものをはっきりと受け取ることのできる人間の言うその旨さとはどんなに素晴らしいなのものだろうか、と。
自分には永遠に捉えることのできない匂いたちを、そしてまた自分の嗅覚の世界を侵している不鮮明さを、だから言うなれば灰色の匂いとでも言うべきものを思うとき、男は自らを、あの一切の熱を体の中に持たず、世界を灰色と見る生き物、つまりは背中に白い翼を持った永遠に生きるものたちのようだと思った。
男は畑を耕し、麦を作って暮らしていました。男の畑はそれほど広くも肥えてもいなくて、朝から晩まで働いても取れる麦は男が暮らしていくのにやっと足りるほどのものでしかありませんでした。それでも男は文句一つ言わず、毎日朝から晩まで汗を流して働いていました。男の暮らしぶりを見ていた悪魔は、苦虫を噛みつぶしたような顔をして悪態をつきました。
「あの男ときたらまったくもって気に入らねぇなぁ。人間ってのは、あんなに欲がないようじゃあいけないぜ。ちょっとあいつの欲を煽ってやらなけりゃなるまい。そして、争いごとの種を産み落としてやらなけりゃなるまい。なんてったって、それが俺様の仕事なんだからな」
悪魔はその夜、男が寝るのを見計らい、神様の格好に化けて男の枕元に立ち、こう言いました。
「おい、男よ。起きなさい」
男は驚いて、飛び上がって起きると、地面にひれ伏しました。
「おお。神様。いかがなされました」
「男よ。お前は毎日よく働いて、不平一つ言わずに暮らしている。お前は立派な男だ。だから、お前の願いを一つだけ聞いてやろう。何でも言ってみるがいい」
男は床に頭をくっつけたままで応えました。
「おお。神様。もったいない話です。いや、本当にありがたい話だ。」
そう言うと男は頭を上げて黙り込み、何やら考えはじめました。悪魔は内心ほくそ笑みながら呟きました。
「へへへ。そうだ、そうだ。よくよく考えろよ。色々考えて、自分の心の中に渦巻くあの欲望をはっきりと思い出してもらわなけりゃあな。とにかくそれこそが、俺の大好きな いさかいって奴の大事な種なんだから。」
まだ難しい顔をして考えている男を見ながら、神様の格好をした悪魔はなおも考えました。
「もしこいつが金が欲しいと言ったなら、にせ金を渡してやろう。こいつが使ったすぐ後ににせ金だとばれちまうような細工がしてある奴をな。あるいは、もしこいつが女が欲しいと言ったなら、俺が美人に化けてこいつのところに現れよう。こいつと一緒に暮らしながらも村中に色気を振りまけば、どうしたって争いごとは起こるってもんだ。まぁ、そんな風にして、たとえこいつが何を願いごとにするにしても、皆がもめだすようなことを起こすのは訳ない話だ。何せ俺様は、もう何百年もこの悪魔家業って奴をやっているんわけなんだからな。」
悪魔がそう考えて醜い薄ら笑いを浮かべていると、男は何かを思いきるような顔をして、ついに口を開きました。
「ああ、神様。私には難しいことは分かりません。けれども、ともかく私はこう考えました。実のところ、私はいまのいままで神様が本当にいるということを知らずにいたのです。あなたは神様なのだから、いつも私の知らないところで私を助けてくれていたのかもしれません。けれども、私はそんなことは知らずに過ごしてきたのです。だから、畑で麦を作るにも、全部自分の力でやっていると思っていたのです。春に畑を耕して種を蒔き、夏に水をやって、秋には収穫する。それを自分の力でやり遂げていると思っていて、まさにそのことが私の喜びだったのです。ですから、これから私を助けてくれることがあるにしても、私が自分の力で色々なことをやっていると思えるようにして助けてもらえないでしょうか。それだけでは、神様がおっしゃられる願いというのにはなりませんでしょうか。しかし私には、たとえそれが神様だとしても、誰かに何かをやってもらって、それで自分が幸せになれるなどとはどうしても思えないのです。だから、できればその特別に叶えてくれる願いというのは、なしにしてもらえないでしょうか。」
男の話を聞いていた神様の格好をした悪魔は、話の途中から次第に苦しげな表情を浮かべて、冷や汗をかき出しました。ついには小さく呻き声を上げはじめ、男が願いを断る声を聞くと、醜い叫び声を上げて空中で本当の悪魔の姿をした黒く小さい石ころに変わってしまいました。そして、その石ころは地面に落ちるとこなごなに砕け、どこからともなく吹いてきた風に乗って、男の部屋の窓から家の外へと吹き飛ばされていきました。
男はおどろいて身じろぎもできずにいましたが、やがて落ち着きを取り戻すとこう言いました。
「なんと、悪魔の奴だったか。まったく、驚いた。しかし、何とか助かったようだ。……こいつは、神様に感謝しなくてはなるまいな。」